夜のスキマにTweet投げてよ

娘たちが子ども部屋で寝るようになった。
こんなに早くに子どもだけで寝られるようになるとは思っていなかったのでまだ部屋は未完成もいいところなのだが、それはそれで二人ともとても楽しそうだ。9時を過ぎればさっさと二人で部屋に入っていく。寝かしつけや眠るまでの見守り(からの自らも寝落ちやらかし)がなくなったというわけだ。
自由な夜なんて何年ぶりだろう。
これが映画なら「『待たせたな……』じゃじゃ〜ん!!ついにあの『ヨル』が帰ってきた!!前回よりも興奮度がパワーアップ!ハチャメチャな『ヨル』をドンミスイッ!」みたいな予告になること間違いなしである。ヤバい。夜が楽しい。ヤバい。
最初こそ洗い物なんかの残した家事を大人しくこなすことに専念していた。
(寝落ちして変な時間に起きてうあーあれやってないこれやってないクソ……)てダルい気持ちでやらなくてもいいなんて最高、スッキリ寝るのってイイネ、丁寧な暮らしができそう、などと思っていたものだ。
が、自由な夜というのはマジで自由で、どこか誘惑的な空気が漂っている。
私の夜はやり残した家事を明日の私にまかせ、深夜まで映画を観たり本を読んだりするスタイルにあっさり切り替わった。もう最高である。
朝起きる時間は変わっていないので当然ダルい気持ちでやり残した家事を慌てて片付けなくてはならないのだが、文化的な時間が確保されたという満足感が私を頑張らせてくれた。丁寧な暮らしよりダルさを先延ばしにして享楽的な時間を過ごす方が私にはお似合いなのだ。
この自由な夜を贅沢に過ごす行為は今さらにエスカレートしている。
なんと、自分一人でベッドに入り、ベッドの中でスマホをダラダラ眺めて寝落ちするという究極の無駄時間を過ごしているのである。
娘たちと一緒に寝るときは当然スマホなど触れるわけもなく、必要な返信や確認も出来ないままベッドに入り、子どもの入眠に良いとされる寝かしつけテクを駆使し、時々飛んでくる寝相悪しキックや寝相ヤバしパンチに呻きながら窮屈な姿勢で眠り続けて体の節々を痛めていた。
それが今はベッドの中で手足を伸ばし、一生見なくても問題ないサイトをダラダラダラダラスクロールしていられるのだ。ヤバい。夜が楽しい。本当にヤバい。めちゃくちゃ楽しくて仕方ない。
どうでもいいツイート、作る気のない料理のレシピ、全然先が気にならない無料配信の漫画、何がしたいのかよくわからない短い動画、そんなものを眺めて時間を消費する行為がやめられない。三井が見たら「お前は何故そんな無駄な時間を……」と涙を流すことだろう(でも私は三井のあの時間もそれほど無駄だったとは思えないが)
突然スラダンネタを混ぜ込んでしまうくらいには夜の無駄な時間を楽しんでいる私である。今の私は過ごし方が無駄であればあるほど夜を取り戻せている気になれるのだ。
朝は3時半に起きないと色々間に合わない生活をしているので睡眠時間はどんどんヤバいことになっている。夕方ウトウトしてしまうこともしょっちゅうだ。でもあんまり気にしてない。いざとなったら今夜はサッと寝よう、という選択肢も取れるからだ。どんな夜を過ごすか自分で選べる、その安心感がヤバさを加速させていく。
「どんな夜を過ごすか自分で選べる」ということがいかに贅沢で、奇跡的で、素晴らしいことなのか、お分かりいただけただろうか。
たまに娘ちゃんたちが独り立ちしてさみしくない?と訊かれるが全然さみしくない。冷たい母親と言われそうだが向こうは向こうで子どもだけの夜を結構楽しんでいるっぽいし(子ども部屋の中からコソコソ楽しそうにおしゃべりしているのが聞こえ漏れてくる)、さみしくなったらそのときはまた一緒に寝れば別によくない?というスタンスだ。こういう母親も世の中にはいます!と言っておかないとすぐ母性神話で括られるのでここにはっきり書いておく。子どもと寝なくてもさみしくないことと子どもに愛情があることが両立する母親もいます。


そんなわけでどうでもいいツイートを眺めてキャッキャしているのだが、ツイッターから引っ越すだの有料になったらじゃんじゃんお金払うぜだのといったツイートが最近目立つ。
引っ越すというのはまあ分かる。SNSっていったらツイッターじゃなきゃもうダメなの、という気持ちは私も強いが、20年近く前は同じ気持ちをミクシーに対して持っていた。あの頃の若者たち、暇さえあればミクシー見てますわ足あとハズいっすわみたいな感じだったじゃん。今はもうパスワード忘れちゃって入れない人いっぱいいるからね。
だから変わったら変わったで、その場所でそれなりに馴染むんじゃなかろうか。
有料化超歓迎むしろお金払わせてくれこの手でツイッターを黒字にさせてくれ、というのもまあまあ分かる。労力に見合わない労働をさせられている社員に腰掛けてツイートする気になれない、というのは、人情として当たり前だ。
ただ学生や働くのが難しい人には今まで通り無料で使わせてやってくれんかのう、そのぶん働いとる人間が多めに払うとかしてくれていいからのう、というところまで付け足したい。
どうでもいいツイートで時間を潰す、という行為は、無駄だけど無駄じゃない。自由な夜にやり込んでみてつくづくそう思った。
無駄じゃないことも書いてあるし、学びや気づきがあるし、などと思いつつスクロールし続けて最後の最後の寝落ち寸前に(いや、結構無駄なことしたな)とキロランケ化しながらスゥッと眠るのがベストだ。そういう体験はお金が自由にならない若者たちにこそ必要だと思う。
映画を倍速で観なきゃやりたいことがこなせない、漫画も厳選して隙間時間に読まなきゃ間に合わない、みたいな時代だが、ツイッターは老いも若きもみんな結構ダラダラ見ている気がする。そういうついうっかりのダラダラコンテンツはもはや貴重な存在だ。無駄なことしたなという気持ちも含めて大切な「若い頃の経験」だと思う。
そういう経験をしてほしい世代こそお金も余裕も全然ない。せめておしゃべりをしたり聞いたりする場くらいは安心してダラダラしてほしいとおばちゃんは願ってしまう。
お金がないから違法行為に手を染めてコソコソ無料で楽しむぜってなるくらいなら、大人が払ってやるから堂々とダラダラせえと言える方がいい。
有料化賛成の声を上げるのも大事だが、オタクの消費しぐさはちょっと過剰なので「いくらでも払う」「むしろ今すぐ払わせろください」「愛があれば課金したくなるはず」みたいなのが強まりすぎて若者が我が身を恥ずかしく思ってしまわないように気をつけたい。
これはPTAとかの保護者役員の話でも「めんどくさいから保護者会費一万くらい上げて全部業者に頼めば合理的!それくらい払ってみんなでやめようよ」系ツイートがちょいちょい回ってくるたびに思っていたことである。
そりゃ確かに合理的だし大勢の人がそうだそうだと言うだろう(だからよくツイートが流れてくるのだろう)。けれど本当にそれで全員オッケーなのか。一万どころか千円の値上げでも厳しい家庭は一世帯も存在しない学校なのだろうか。じゃあその人たちのぶんまで私が余分に払いますわと言ってくれるのだろうか。払うのが苦しい人たちがひそかに申し訳ない、情けない気持ちにならずにすむものだろうか。
役員仕事はそれこそガチの意味で無駄が多いし業者に頼んだ方がうまくいくものもあるけれど、簡単にお金で全て解決させろを通して大丈夫だとはあまり思えない。
私がケチなだけなのか、最近の消費しぐさの加速には少し不安を感じるときがある。もちろん対価を払うのは当然のことだが、それ以上のことを過剰な盛り方で強く叫ぶ必要は本当にあるのか、ちょっと考えた方がいいところまで来た気がする。
とにかく若者には時間やお金を気にせずのんびりとツイッターを巡ってほしい。意外と世の中は広くていろんな人がいてしょうもないことやってたりするんだな、とヘラヘラする機会は多ければ多いほど良いと思うから。

キムタクが岐阜にやってきた

信長まつりが終わって三日経った。
この三日間、めざましテレビにめっちゃ映っとったね!インターネットにもいっぱい記事が出たね!という会話が岐阜のいたるところで繰り広げられていた。これは知り合いが映っていたとか自分たちの村まで紹介してもらったとかいう話ではない。「岐阜県」が全国的なメディアで取り上げられているなんて、というレベルの話である。岐阜という存在がこんなにも可視化されることこの先絶対ないもんねという確信を持ってみんな信長まつりのニュースを反芻している。全国のみんな、これからも岐阜が存在してること忘れないでね。


信長まつり当日、私は山奥にいた。
薪になりそうな木をいくらか切り倒したから取りにおいで、との連絡を受け、獣の気配がヤバい山里を半日うろついて過ごした。そんな場所でも今日キムタクやな、岐阜チャン録画せんとかん、という会話を聞きまくったのだから本当にキムタクはすごい。
その後テレビをつけると「ミニオンズ」のクライマックスシーンみたいな光景が広がっていた。信じられない量の人間が道路をみっちり塞いで蠢いている。これは本当に岐阜か?パラレルワールドにおける岐阜じゃないのか。ここは岐阜なのにこんなにも人がいて大丈夫なのだろうか。しかしみんなとても楽しそうだ。県外から来た人が岐阜で楽しそうにしている。すごいなあ。
そんな気持ちが浮かぶ映像が次々と流れてくる。
キムタクは岐阜に存在しててもかっこよかった。さすがキムタクである。
こんな熱狂的な群衆に囲まれて歩くなんて、普通の人間なら恐怖しか感じられない気がする。やはり芸能人はそのあたりの心構えが違うのだろうか。
まつりの前日、キムタクが岐阜羽島駅に到着したときの動画もいろんなところから流れてきた。それもまたすさまじい歓声が上がっており、改札前に一体どれほどの人が集まっていたのだろうと思わせるものだったが、キムタクはそこをスタスタとごく普通な感じで歩いていく。さすがである。
マジ岐阜県警が試されるときやな……とか岐阜にこんな緊張感漂うの、関ヶ原の合戦以来なんやないかな……とかテレビの前で好き勝手言っていた我々だが、大きなトラブルが起きることなく終わって本当によかった。


信長まつりの余韻は長く続いている。
孫の知り合いの知り合いの知り合いが当選しとったんやてぇ、パレードの写真送ってもらったでちょっと見たってぇ、と我が事のように嬉しそうな笑顔でみんなに言って回る人もいれば、当選した人に誘われて現場に行くことを当日までずっと黙っていた、何故ならその情報によってトラブルに巻き込まれるのが怖かったから、という慎重派の人もおり、「実はあのとき」トークが次から次へとあふれてくる。誰のどんな体験談も臨場感あふれる話しっぷりが面白い。
あまりにも個人的な体験すぎてインターネットには書けない話ばかりを立て続けに聞けているのだが、むしろそれはとても贅沢なことのような気がする。物語にできない無数の物語がこの世には結構あるということを、インターネット大好き人間の我々はつい忘れがちである。
「キムタクなんて一生この目では見られないと思ってた、こんなこともう二度とないと思う」と涙交じりに語る人も多かった。
芸能界を引退したわけではないのだし、イベントを調べて東京に行けばいくらでも会えるのではないか、二度とないは大袈裟ではないか、とは全然思わない。
そりゃあ死ぬ気になれば大抵の人は何でもできるだろう。何度も死ぬ気を出して東京と岐阜を何度も往復して、そうすれば残りの生涯で何度でもキムタクを見ることができるかもしれない。
けれど涙を浮かべて「二度とない」と言っている人にとって、それらの理屈は少しズレたツッコミでしかない。お金や手間を惜しんでいるわけではなく、なんというか、人生の送り方の問題に近いものがあり、その人たちにとってはこの地で生活していく限り本当に「二度とない」イベントだったのだ。
スターの方から来てくれる、これが地方に生きて地方で死ぬ人間にとってどれほどありがたいことか。
よかったねぇよかったねぇ、などと相槌を打ちつつそんなことを思う私なのだった。


それにしても岐阜県民の伊藤英明に対する好感度の高さもなかなかのものである。
今回キムタクを連れてきてくれてありがとねぇ、というのはもちろんだが、その前にまず「いつも岐阜のこと忘れないでいてくれてありがとねぇ」という気持ちがある。岐阜県民同士の「キムタクがやってくるなんてすごい」という会話には大抵「でも伊藤英明は前から来てくれてるもんね」「伊藤英明って故郷大事にしてて偉いよね」が付いてくる。伊藤英明の岐阜愛を決して無視したくない岐阜県民たちである。
今回改めて動画などを見ると伊藤英明もめちゃくちゃかっこよくて、やっぱり「芸能人」という感じだ。そんな「芸能人」という感じになってもなお尻毛らへんをうろうろしてくれるなんて気取ってなくていいなと思う(しかしキムタクは「尻毛」という地名に対して何か言いたくならなかったのだろうか)。


そんなこんなで県内が一斉に沸いた一週間だった。
キムタク的にはここまで大騒ぎされるなんてめんどくさいことになったなという気持ちになったかもしれないが、ほんの少しでも岐阜って面白いところも若干あるなと思ってもらえたのなら嬉しい。これからも岐阜をよろしく。

世界一チャーミングな女の子

育児系ツイートを見ていると、「家事育児が無能な旦那マジいらん、女同士で子ども育てる方が絶対うまくいくよね〜」という内容のツイートをしょっちゅう見かける。
「女は気遣いする人生を送らされてきたから共同生活でも色々察してきちんとできる人ばかり、よって女は女同士で生活するのが最適である」が高い共感を呼ぶのは分かる。ほとんどの女性は幼い頃からずっと、社会から一方的にきちんとさせられてきたからだ。そんな女性たちが連帯して声を上げられるようになった現状は素晴らしいと思う。
それはそれとして、「女ならみんな良くも悪くもきちんとできてしまうので」という前提で話が始まるたびに、私は自分の存在がないものとされている「シスターフッド」に喉の奥がヒュン……となるのを感じてしまう。
私は家事も育児も仕事もまるでダメだ。夫の方がはるかにうまく家のことを回している。子どもたちだってパパが大好きだ。はっきり言って私が頑張ったところで大した働きになっていない。むしろ気遣いのできない私がいることで夫の負担はまあまあ増えている。
仕事だって万年役立たずだ。ボロクソ無能扱いされてる上司や同僚や部下のツイートを見ると全部自分のことかと思う。
女同士の連帯は必ずプラスとプラスのパワーになる、という考えに、私は自分が存在することへの罪悪感を覚えてしまう。社会的にマイナスの私が連帯に加わることで彼女たちのプラスになることは何もないからだ。
人並みの仕事もできず、生活能力はポンコツ、人への気遣いも苦手で数十年経ってようやくあのときのあれはこういう意味だったのかと「察する」レベルである。女同士で子育てしたらお互い察し合えるからハッピーに決まってる!という人と一緒に暮らしたら三日で絶縁を申し立てられるだろう。
更に私は頭も良くない。フェミニズムについて日々思うことはあれど、しょっちゅう「間違い」をやらかしている。ああしまったそう言われてみればこの考えも大概だったなと反省することだらけだ。そこも他人に引っ張ってもらうしかないとなれば、「お互い」に高め合える関係性ではない。その「シスターフッド」には私が混ざれる隙間はなく、端っこで一人卑屈にニヤニヤしながら見様見真似でダンスを踊るしかない。
シスターフッドという響きが、実はほんの少し苦手だ。
友達といえば女、苦手で悩む相手といえば女、敵も味方も女、周りやたらと女女女、という環境をなるべく選んで生きてきた。私は女がたくさんいる社会が落ち着くタイプなのだ。男は初手から私を人間扱いしないやつがほとんどである。その点女は大抵の場合外見と内面を総合的に確認した上で私を人間扱いしない判断を下している。誠実である。
じゃあ何でシスターフッドという響きが苦手なのかというと、先ほどのツイートたちのような、「賢い女の子たちのための」という条件が前にくっついている感じにびびっているからだ。私たちは向上し合う関係性であること、というプレッシャーに心がしおれてしまうからだ。


私はグリーンホーネットという映画がそれはもう大大大好きなのだけれど、主人公であるブリット・リードはかなりのダメ人間である。ダメ人間からスタートして最終的にスーパーヒーローになるのかと思いきや、わりと終盤までグズグズ言うとるわ肝心なところでヘマるわ、誰がどう見ても分かる成長みたいなものはそれほどあるわけではない。
それでも相棒のカトーは、そんなブリットの隣にいるだけで嬉しそうである。カトーは最初から最後までそんな感じだ。
カトーにとってブリットはブリットであるだけでもうある程度オッケーって感じなのである。ブリットは「善い人間になりたい」と心の底からの言葉を発した後で全く善さのない行動や言動をポロポロポロポロぶちかましてしまう。でも善い人間になりたいという気持ちは嘘でも一時の気の迷いでもないのだ。自分はそんなことを言える資格がある人間じゃない、という劣等感に常に邪魔をされつつも「善い人間になりたい」と頑張って口にできる、それだけで私もカトーもしみじみしてしまうのである。


カトーがブリットがブリットであるだけである程度オッケーなように、私の友達も私が私であるだけでわりとオッケーなところがある。
私の友達は私の社会的な長所を好きの理由にしていない。別に私には社会的な長所が何一つないからというわけではない(はずだ、さすがに)。私といるときのノリとかがなんか知らんけどたのしーから私のことが好きなのだ。私の生活能力とかシゴデキ具合とか常に賢い思想でもって正しい判断ができるとかそういうところとは全然別に、私という存在をなんかいいよねって思ってくれている。
一緒にいるとなんか知らんけどたのしー、という気持ちはパワーをくれる。そういう浅くて軽い、でも一人では生まれようのない感情も「シスターフッド」と呼んでいいなら私はシスターフッドって最高!と全力で叫ぶことができる。女同士ってチョーたのしー!!と堂々と輪の中に混じり、手に手をとってど下手くそなフォークダンスを踊ることができる。
私は社会における女としては社会の女たちにメリットを与えることが何一つできないポンコツ女だが、私のことを好きな女たちにとっては世界一チャーミングな女の子なのだ。
賢い女の子じゃないことが後ろめたい女の子たちも、世の中にはこれくらい図太い思想で生きてる賢くない女がいると知って安心してもらいたい。社会的な長所の数で強さが決まるシスターフッドなんて本当はないはずだ。みんな生きてるだけで誰かにとっては絶対チャーミングな女の子なんだから。

待合室の本棚は

初めて行った病院の待合室の本棚に、キングダムがキュッと詰まっていた。
キングダムは読んだことがない。始皇帝の話で面白いとはよく聞くが、何しろ巻数が結構あるのでちょっと手を出しづらい。私のような理由で未読の人は多いのではないだろうか。
予約システムがしっかりしており、サクサク順番が回る病院にそんな壮大な物語の漫画がさらりと置かれているのがなんだか妙に面白かった。これは院長の趣味だろうか。それとも待合室の整理整頓を任されている人が購入する本を厳選しているのだろうか。いや、意外と院内の誰も読んだことがなかったりして。巻数が結構あるとは知らず、なんか映画化してたからみんな読みたいかもねくらいの感覚で何巻かまとめて買っただけなのかもしれない。
どれ一巻読んでみるかと思ったところで診察室に呼ばれた。タイミングが絶妙である。


待合室の本棚は、個人の家の本棚とはまた別の味わい深さがある。
個人の本棚には、当然だがその人が好きな本が詰まっている。積ん読にしても「自分が読みたい本」「自分が面白いと思えそうな本」の状態で詰められている。家の本棚でその人の人柄をなんとなく想像してしまうという人も多いだろう。
それに比べて、待合室の本棚はかなり雑味がある。いろんな人が来る、いろんな人のための本棚であり、是非この本を手にとってほしいので並べてありますではなく、待ち時間の暇潰しにどーぞというのが本来の目的である。それでも本棚の中身に権限を持つ人間が忌み嫌う本はさすがに置かれていないだろう。そのあたりのこだわらなさと拭いきれない個人の感覚のまだら具合が面白い。
子どもの頃、視力矯正のために通っていた眼科はホラー漫画がかなり贅沢に揃えてあった。
「本当にあった怖い話」のような、短めの読み切りばかりが載っている雑誌なども置いてあり、ドキドキヒヤヒヤしながらそれを読むのが楽しみだった。待ち時間の限界まで必死に読み込んでいたのをよく覚えている。視力は結局回復しなかった。
あの頃はテレビでも本当にあった怖い話がよく流れており、オカルトブームが確かに来ていた。
それでもホラー漫画が充実した病院というのはあの眼科くらいしか思い出せないから、あれは趣味がかなり入った本棚だったのだろう。
具合が悪くなると時々連れていかれた古い個人病院には、マーガレットや少女コミックがひっそりと数冊置かれていた。りぼん読者だった当時の私にはちょっと大人っぽい雑誌で、これまたドキドキしながらページをめくったものだ。連載途中の漫画をいきなり読むのだから話の細かい部分はさっぱり分からないのだが、それでも面白く読めていたのだからすごい。子どもは途中からの漫画をすぐざっくり理解し面白がれる能力がある。しかしあの能力は大人になるにつれ鈍っていくのは何故だろう。知識が増えて物事を理解しやすくなっているはずなのに不思議なことだ。
ウワーッ気になるところで次号へ続くやねーけ、うちはりぼんしか買ってもらえんでこの続きを読むにはまたここに来なあかん、次が出るまでにまた来るんやろか、でも注射とかは嫌やし……などと考え込みつつ病院を後にする。
だがしかし何度通っても雑誌は更新されない。よく見るとマーガレットも少女コミックも背表紙がボロボロだ。ジャンプに至っては表紙が半分破れているものもある。そう、この病院では待合室の本棚は少女漫画には限らず全ての本が滅多に更新されないのである。
今思うとその適当加減も味があって面白いのだが、当時はこの世にとっくに出ているであろう漫画の続きが気になって仕方なかった。
少し大きな病院なら必ず人気の漫画や最新の雑誌が置いてあるかといえばそうでもなく、聞いたこともないド昭和の古めかしい単行本が揃っていたりもする。あれは本当に誰の采配なのだろうか。病院で働いたことがないから分からない。待合室の本棚に並べる本は誰それが決めがち、という医療現場の傾向があるなら知りたいものである。やはり院長の力が大きいのだろうか。


病院ほど突飛なセレクトではないが、美容院で渡される雑誌を読むのも楽しみのひとつだった。
今はタブレットを渡されて好きな雑誌を好きに選んで読んでくださいという流れが多く、そうするとまあ確かにハズレなしで興味ある雑誌を眺められるのだが、美容師さんの一存で渡される雑誌を読む、という流れも結構好きだ。私ってそう見えます!?という驚きがあったり、そうそうこういうの好きなんですわかります?という妙な照れが生じたりする。
美容院で会話をすると、私の場合大抵癖毛について嫌なことを(悪気なく)言われるばかりなので、極力会話はしたくない。なので雑誌に夢中なので会話はあんまり気分じゃないです、という流れにできるのは正直ありがたかった。あまり読んだことのない雑誌でも集中して読むと意外と面白かったりもする。案外1ページくらいは興味ある記事が載っているものだ。
病院にしろ美容院にしろ、こういう「半ば強引に出会わされた本たち」というのは印象に残るものだ。ある個人の熱意によって手渡された「とっておきにしてほしい本」とはまた違う、こちらからとっつきにいくしかない本との出会い。ハズレても黙って読み潰すしかない時間。そういう個人で仕組みきれない流れがたまに日常の中にあると面白いなと思う。


まあ、そんなことを思うようになったのも最近である。わりと頑丈な人生を送ってきたのだが、ここ最近一気にガタガタといろんなところが崩れて病院に頼る機会が増えた。健康は特権だなと改めて感じる今日この頃だ。本を読む話をブログにタラタラ書く隙間で、もう少し体を動かすべきだとちょっとだけ反省している。

ファンシーショップ・フォーエバー

娘たちとショッピングモールに行くと、必ずファンシーショップに寄らされる。
疲れていようが他に目的があろうが関係ない。必ずファンシーショップに寄らされる。今日は何も買わないよと言っても無駄だ。買わなくてもいい、チェックするだけだと娘たちは言う。実際彼女たちは店内に入ってもさほど物をねだらない。こいつはケチな母親だと理解しているのもあるだろうが、とにかく店内に入れればそれだけでそれなりに満たされるのだ。かわいいもの、おしゃれなもの、面白いものでいっぱいの、夢のような空間。それがファンシーショップである。


ファンシーショップファンシーショップと繰り返したが、今の子がああいう雑貨と文具の店を「ファンシーショップ」と呼んでいるのを聞いたことがない。具体的な店名に「っぽいとこ」を付けてすませている。ファンシーショップはもう死語なのだろうか。ファンシー文具のことを今は「ステショ」と呼ぶのも最近知った。ステショ。ステーショナリーグッズ。なるほどなるほど。馴染まんな。
感性がとっくにおばさんと化した私だが、娘たちについて店に入ると、どうしたわけかさっきまでの冷静さが吹っ飛んでしまうのである。
キラキラした飾りのついたヘアゴム、目を惹くド派手なパッチンピン、おもちゃっぽさが逆にかわいい指輪たち、少しお姉さんな雰囲気のイヤリングコーナー。学校には付けていけないおしゃれなアイテムがギュッと並べられている。
かわいい。
娘たちには偉そうに今日は何も買わないよなどと言っておきながら、一瞬で心を奪われそうになる。危険だ。
じりじりと移動すると、棚いっぱいのすみっコぐらしのぬいぐるみたちと目が合ってしまった。みんなかわいい、かわいすぎる。手に取って1匹1匹と語り合い、おうちに連れて帰る子を見つけたい。
いやいや家もうすみっコだらけで人間がすみっコに追いやられとる現状やろと自分に言い聞かせてその場を去ると、今度は恐るべき文具コーナーが待ち構えている。
文具コーナーはマジでヤバい。何しろ社会人は文具を使う。「仕事で使うし……」というかなり堂々とした言い訳ができてしまう。キラキラした鉛筆やゆめかわなペンケースや甘い匂いの消しゴムやユーモアあふれるメモ帳や飾りたくなるペンキャップが私を誘う。かわいいキャラクターのついたクリアファイルなんかもかなり強敵だ。「書類仕分けしておくとわかりやすいし……」などともっともらしいことが言えてしまう。実際書類を仕分けたことなどなく、くしゃくしゃになったプリントたちをカバンの底から引っ張り出して読み返すような人間だというのに。


ファンシーショップは基本的に小学生から中学生くらいをターゲットにしている店である。それなのに何故、アラウンドフォーティーの自分までこれほどキュンとしてしまうのだろう。
子どもの頃、ファンシーグッズを手に入れる機会は滅多になかった。
家が貧乏だからというより、田舎にはそもそもファンシーショップなど存在せず、そういったグッズの情報そのものが入ってこなかったのである。なのでファンシーグッズに関しては「あれ欲しいこれ欲しい」も「私だけ持ってなくてみじめ」も生まれにくい状態のまま育つことができた。ごくたまに街に出たとき、マザーグースのピヨちゃんの文具やサンリオキャラクターの雑貨を買ってもらえれば充分幸せだったのだ。
なので子どもの頃の飢えを満たしたくて物欲が湧いている、というのは少し違う気がする。
シンプルに、アラウンドフォーティーだけど普通に欲しいのだ。
マジで普通に当たり前にめちゃくちゃ欲しい。多分そんなに使い勝手いいわけじゃない文具とか雑貨とかがもうめちゃくちゃめちゃくちゃめちゃくちゃ欲しい。
アラウンドフォーティーなので本気を出せばめちゃくちゃ買えなくもないところがまた恐ろしい。しかし私も親である。無計画に買い物するところを毎回見せるのはさすがに後ろめたい。ぐっと我慢である。
でもほら、欲しいものを欲しいときに買える嬉しさを体験させるのも親としている大事やん?などともっともらしい言い訳が浮かんでくる。ぐぐぐ。
子におもちゃを我慢させるとき、親もまた歯を食いしばっているのである。
見るだけだよ、と最初に約束したときはさすがに約束通りにするが、そうでもなければわりとちょいちょい誘惑に負けて娘たちと一緒にピンやペンを買ってしまう。
グッズを選ぶときの娘たちの嬉しそうな顔といったらない。この世の全てのファンシーショップに感謝を捧げたくなるほどだ。どれもこれもかわいいから迷っちゃう、と悩む横顔に漂う幸福感は、ファンシーショップの中にだけ存在する種類のものだ。ファンシーショップはすごい。存在するだけでファンシーを愛する全ての子どもたちにパワーを与えている。
オンラインでいくらでも安くてかわいいものを効率よく検索できる時代だが、やはり実際のお店の持つパワー、ファンシーグッズひとつひとつが集まることによって生まれる強大なファンシーパワーというものは唯一無二である。こういう商売は不景気でなかなか厳しいものがあるだろうが、頑張っていただきたい。

キムタクが岐阜にやってくる

岐阜市から往復はがきが消えた、という話を、ここ数日で何度か耳にした。
11月にある岐阜市の信長まつりにキムタクが出るからである。みんなキムタク見たさに抽選用のはがきを必死に買い求めており、その結果岐阜市の往復はがきが売れまくっているというわけだ。
さすがに「消えた」は盛り過ぎだと思うが、まあ大変なことになっとるんやろうなというのは想像がつく。何しろここは岐阜である。本来ならばキムタクがやってくるような場所ではない。しかも番組のロケとか名古屋への移動ルートとして通り過ぎるとかでなく、岐阜のイベントのためにやってきて岐阜のイベントに出るというのだから、そりゃあ県民はパニックになるに決まっている。これはキムタクが好きとか嫌いとかそういう次元の話ではない。
私自身キムタクのファンというわけではないが、岐阜でキムタクが見られると聞いた瞬間「えっ見たい」と思った。岐阜にキムタクがおりんさる、そんな謎過ぎるオモロ光景が見られるものなら是非見たい。岐阜とキムタクの組み合わせはそれほどの破壊力があるのだ。


だがしかし、私はすぐキムタクを見に行くことを諦めた。往復はがきが手に入らなかったのではない。私より見に行くべき人たちがたくさんいるなと圧倒されたからである。
信長まつりにキムタクが出ると公表された直後、誰もが「そういえば信長まつりにキムタク出るんやと!」と雑談のネタにした。そこから各々のキムタクといえばさあトークが始まるのだが、オモロ過激エピソードが次から次へとあふれてくることに驚いた。私のお母さんキムタク好きなんですけど、私の職場の先輩キムタクが好きすぎてこんなことがあって、私のお母さんの友達にディープなキムタクファンがおるんやけどこの前ね、と「知り合いの知り合い」くらいのキムタクファンの話がいろんなところから飛び込んでくる。その話のひとつひとつが本当にぶっ飛びまくっており、とてもインターネットには書けないものばかりなのだ。
別に深い愛ゆえの犯罪とかそういうことでは全くないのだが、とにかく唯一無二過ぎるエピソードばかりで、ブログに書いたら2分で身バレの予感しかしないので細かく具体例を挙げるのはやめておく。
さまざまな人からさまざまな「私の知ってるあの人とキムタク」エピソードを聞いてきたが、「あの人」はだいたい私よりほんの少し上の世代の方という印象だ。SMAPの人気絶頂期を考えたらまあそうなるだろう。ちなみに私の青春時代はキンキキッズとV6がすごかった。永遠にイノッチが好きよ。
私よりほんの少し上の世代話を私よりやや下の世代が語るため、東京までしょっちゅう遠征してどうたらこうたら、とか破滅寸前までお金使ってどうたらこうたら、という若者っぽいパターンはあまり聞かない。岐阜で普通に生活しながら静かにキムタクを愛し、だがある瞬間何かをきっかけとしてタガが外れすごい行動に出て、その後何事もなかったかのように再びいつもの生活をやっている、という具合で、その瞬間最大風速とのギャップがとにかくすごい。命がけの咄嗟の行動とかそういう類の話だ。
小さな村の小さなコミュニティ内でちんたら雑談してるだけで結構な人数のぶっ飛びエピソードが自然と集まってくるのだから、改めてキムタクという存在の凄さと、その存在に対する情熱のぶつけどころがない地方で生きるファンの血潮の熱さに圧倒されてしまう。私だって生キムタク見られるもんなら見たいなーくらいの気持ちはあるが、「いや、私なんかよりこの人たちこそキムタクを岐阜で見るべき人たちでしょ……私が話聞いた人たち全員絶対抽選当たってほしい……」という気持ちの方が今はめちゃくちゃ強い。私一人遠慮したところでどうにかなるものではないが、もうここ数日の「あの人とキムタク」エピソードだけで満足してしまったところがある。本当にあった情熱的な話は物語より奇なり。


今の岐阜はミニシアター系の映画にありそうな、「のどかな田舎の小さな村で巻き起こる、ちょっとしたドタバタストーリー(村内だけで大騒ぎして最終的には村内で解決)」みたいな雰囲気でいっぱいである。主役はもちろん「私の知ってるキムタクファンのあの人」だ。全ての「あの人」が主役なのだ。「あの人」の数だけ「小さな村の平凡な毎日に突然巻き起こったミラクルチャンスの映画」がある。みんなそれなりにハッピーエンドになるといいなと思う。


私は岐阜が好きなので、岐阜が岐阜県民以外にも可視化されると嬉しい。向田邦子のエッセイに岐阜ががっつり出てきたときはニコニコしながら読んでしまったし、デトロイトメタルシティの映画で「クラウザーさん岐阜羽島を通過したぞッ」というセリフが出てきたときは死ぬほど笑った。
このブログで岐阜の存在を認識した人は、何かの機会があれば是非岐阜に立ち寄ってみてほしい、と言いたいところだが県外の人間に何かの機会が訪れることはなかなかないかもしれない。岐阜だから。
岐阜、山と川が豊かな県です。よろしくね。

私と子どもの場合の話

長女が保育園の先生から療育を勧められたのは、二歳を過ぎた頃のことだった。
その頃の私は完全に疲れ果てていた。親のくせに長女がこだわることのほとんどが理解できなかった。冷静でいなければと頭では分かっているのに感情がそれを超えてしまう瞬間が頻繁に訪れ、私は親失格だという自己嫌悪に悩まされた。世間から親子まとめて白い目で見られることにも傷ついていた。この先子どもが社会に出ることを完全に恐れてしまっていた。
そこまで思い詰めていたにも関わらず、まだ私はどこかで「イヤイヤ期はすごいってみんな言ってるし、みんなこういうのを乗り越えてきたんだ」「親の私がもっと頑張って親らしくなれば変わるはずだから、私が悪いだけなんだ」とのんきな結論を出していた。


園の先生はとても慎重に話を切り出してくださった。
他の子ができることがこの子はできないので、という言い方はされなかったような気がする。毎日のことに困り感があるのは、本人はもちろん親さんも大変だろうという、こちらへの労りが感じられる物言いだった。
目から鱗だった。
私は昔から他の人が普通にできる全てのことが何一つまともにできないという欠陥人間であり、だから育児が人より大変でうまくいってないのも私の問題なのだと思っていた。
もちろんその問題がまるでないわけではないのだが(よその親さんがズボラ、手抜き、適当といってさらりとやれていることが私は頑張っても全然できない)、我が子の未来をよくする手段が増えた、ということがとても嬉しかった。親にできることは限界がある、と言ってもらえたことで肩の荷が少しだけ下りた。
本当に先生方には感謝しかない。簡単に言える話ではないことだ。
毎日長時間娘と向き合い、この先のビジョンまで考えた上で勧めてくれたからこう思えるのだろう。そこを忘れずにいたい。


ワクワクドキドキしながら通い始めた療育は、とてもとてもラッキーなことに長女にばっちりハマってくれた。
とにかく楽しそうにやっている。それだけで私も嬉しかった。この子にとって、社会の中にひとつ自分が楽しくやっていける場所ができた。それでもう満足だった。社会の中で、というのがポイントである。家庭だけではダメなのだ。子どもにとって家庭は楽しくて当たり前の場所だ(でなければならない)。完全な他者だらけの社会でもうまく楽しめたという経験は、大きくなったとき必ず力になる。これは楽しみずらい社会のシステムの方がクソだから社会が変わるべき、という話ともちゃんと両立する。
私は社会に一度も適応できないまま大人になった人間なので、今でも実務的な意味で社会に自分の居場所はないと感じている。ただ、友達とケタケタ喋っているときだけは自分もみんなと同じ世界で生きているという実感が持てる。
自分は自分、他人なんて関係ない、という考えももちろん大事だが、能動的に世界から自立するのと世界からこぼれ落ちて自分しかいないのとでは意味が違う。少なくとも私は世界とうまくやった上で世界から自立したかった。
先生方にうまく指導していただき、楽しく社会を経験している長女は私のようにいじけた人間にはなりにくいのではないか。少なくとも一度は私は社会でやれたんだ、やれる社会が作れるんだという気持ちが持てたのだ。こういう経験をさせてあげられて本当によかった。
楽しければいいよねと親が低いレベルで満足している間に、長女はすくすくと成長していった。こだわりをコントロールする術を少しずつ身につけ、言葉を使う面白さを知っていった。これらは親の愛の深さや頑張りとは関係ない、専門家の指導と本人の努力で伸びていったものだ。つくづく、親にできることには限界があると思わされる。親なんてただ「産んだ人間」というだけで、子を必ずベストな状態に導ける存在だなどと思ってはいけない。親も、周りの人間も。


長女が療育に通い出した頃はまだコロナも存在しておらず、保護者たちはのんきに井戸端会議をしていられた。それもまた私にとってありがたい時間だった。
あの頃はこだわりの強さからとんでもないエピソードが生まれる毎日だったのだが、療育に通う保護者たちもみんな同じ毎日を送っていた。実家で話せば親のお前の躾が悪いからそんなことが起こるんだと怒鳴られるようなエピソードも、ここではみんなあるある笑い話として流してくれる。むしろさらにパンチの効いた話が返ってきて、涙が出るほど笑わされたりもする。
社会の常識から言えば笑っとる場合かという話もあるのだが、それを笑い話として流し合えることが我々に元気を取り戻させてくれていた。
他者に「エピソード」として語ることでようやく消化できる感情がこの世にはある。
パワフルな子どもたちが集まっている中でも「半額シールが貼ってあったらアツいお総菜ベスト5」だの「ペットのオモロ写真バトル」だの「これよかったよ100均グッズ」だのといった、ごく普通の、育児に関係ない、しょうもない話がダラダラできるのも嬉しかった。子どもたちがちょっとぐらい奇声を上げようが親の足にしがみつき続けていようが「お子さん大丈夫?」と言われたり「ごめんね、うちの子ちょっと元気よすぎて」などといちいち断りを入れたりすることなく、くだらない話を続けられる。お互い「子どもってそういうとこあるよね」と分かっているからだ。
こんな普通の井戸端会議がとても楽しかった。元々の気が合う人たちとたくさん出会えたのも運が良かった。これは本当に運の問題もある。
今はコロナであまり親同士で仲良くなる機会がないのかもしれない。早く収束することを願うばかりである。


インターネットでは田舎の人間は無知と偏見から生まれた陰口しか言わない生き物みたいに言われているが、療育に通っていると告げても意外とみんな反応があっさりしていたのも印象深い。
「先輩の子も通ってた」「友達のお兄ちゃんの子が通ってた」といった、田舎によくある「謎に深い地元の繋がりと広く共有される情報」が良い方向に働いたのである。療育という言葉の意味が分からなくても、まあなんかそういう教室があって、わりといろんな人が行ってるらしいねくらいのノリだ。むしろ私が日々辛く感じるのはインターネットの中の見知らぬ人々の放つ差別的な言葉たちである。私は都会の賢い人間だと自分で思っている人たちがそういう言葉の使い方をしているところを何度も何度も見てきた。悪気はないのだろう。だからといってムカつかないわけではない。賢ければ何を言っても差別にならないと思っている人間が多すぎる。


私はたまたま運良く親子揃って「ハマれる」場所に出会えたに過ぎない。
子どもの数だけ悩みが存在し、誰かと同じやり方をすればうまくいくなんてことはなかなかない。似たようなやり方、思いつかなかったやり方、とにかくいろんなやり方を試し試し進んでみるしかないし、それでよかったのかどうかは誰にも絶対分からない。そのことは、親だけでなく周りの人間が心に刻んでおかなくてはならないと思う。周りの人間の言葉は強い。インターネット社会において「周りの人間」「世間の声」はあまりにも当事者に届きやすくなっている。そのことをよく考えなければならないと思う。
私は今だって親としてやることなすこと全てが不安だらけだ。すぐインターネットを覗いて落ち込んだり安心したりしている。私みたいな人に、あくまでサンプルのひとつとしてこの話が読んでもらえたら嬉しい。