母親とかいうヤバいやつ

エブエブをまだ観ていない。
キーホイクァンおめでとうのブログを書いてからもう結構経つのだが、まだ観ていない。観るのが怖くなってしまったからだ。
私には二人の娘がいる。この春から小学三年生と一年生だ。私の知らない人間たちとの関係性を深め、私の知らない世界を既にがっつり築いている。楽しそうで何よりだと思うし、正直なところ、手が離れてほっとしている部分がかなり大きい。私には私の趣味や時間があるべきだとも考えている。
それでもまだエブエブを観るのが怖い。自分が「不正解」な感想を持ってしまうかもしれないのが怖い。
少し前にエブエブを観た人が「自分の子どもを尊重している人ほど母と娘のあの結末にムッとなるんじゃないか」という感想をツイートしていた。
その人個人の感想でしかないのだが、そのツイートにはそれなりのイイねが、つまり賛同があったし、ご本人もしょっちゅう肯定的な意味でのリツイートが流れてくる人である。
私はすっかり怖くなってしまった。
もしエブエブを観て、結末にムッとした感情が湧かなかったらどうしよう。
子どもは子ども、私は私、別の人間であり人生の責任は自分で取るしかないと日頃から意識しているつもりだが、所詮今の私は子どもにとっては絶対的な支配者である。子どもを100パーセント尊重できている自信はない。そんな瞬間あったことがない。
様々な人によるエブエブの感想が、一時期常に私のタイムラインに流れ続けていた。母と娘、という関係性の根深さ、脆さ、一方的な負荷具合について思い知らされ続け、私は私の未来の感想にすっかりびびってしまったのだ。親に苦しめられた人たちと方向性の違う感想が生まれてしまったとき、私は自分を邪悪な支配者であると、きちんと受け止められるだろうか。
これが「親と子」というテーマについての感想でなければ、ここまで他人の感想を気にすることはなかった。一人一人の感想は違っていて当たり前、読み解き方に正解不正解はあっても感じ方にそれはない、私はいつもそう考えている。
けれど「親と子」に関してはダメだ。私はそのテーマに関してはもう親である視点を完全に排除することができない。親としていい話だったナァと思ったものが子にとっては地獄のようなバッドエンドに感じられる、その落差を正確に読み取ることはもうできないと思う。親に都合のいい物語に対して無自覚に甘くなっていると考えたほうがいい。それでもおそらく足りないほどだ。
そもそも、私は賢い人間ではない。
フェミニストならみんな好きだよね、という「お嬢さん」も正直辛いところがありあまり合わなかった。利発な女の子のためのお話とされる「ブックスマート」もピンとこない。なんかもう人間のレベルが違いすぎる。
それらを「私のための映画」だと思える人たちが、母と娘の距離感について娘の立場から親の行動をジャッジしたくなるエブエブを、私のようなスットロい人間が観て正確に理解できるのだろうか。親としてのヤバさを突きつけられるだけにならないだろうか。
もちろん親である以上そのヤバさとは向き合わなければならないと分かってはいる。親は子にとって常にヤバい存在だ。それを自覚することを怖がってはいけない。分かっていても怖い。途方に暮れる。観に行きたいけど観に行けない。親として観るべきだ、そして親として自戒を込めるべきだと思いつつ今日もグズグズ上映時間を逃している。


「春にして君を離れ」を最初に読んだとき、私はまだ「娘」だった。
「春にして君を離れ」は面白かった。親が正しいとは限らない、賢いと思って言ったりやったりしてきたことが視野の狭い愚かな行為だったかもしれない、と親自身が自覚していく様に、仄暗い爽快感を覚えた。
「母親」になった今、仄暗い恐怖を覚えつつ時々読み返している。小馬鹿にしていた主人公と同じ道を自分が歩んでいないか振り返るためにだ。
娘だった頃に触れた、いわゆる「毒親もの(毒親という物言いはあまりいいと思わないのだが)」はまだ心して読んだり観たりできる。娘だったときの親や大人に対して抱けた純粋で一方的なムカつきが思い出せる。
今は親もこういうとき仕方ないことあるし、親も人間だし、などと考えてしまっていけない。その考えが行きすぎていないかどうか、正確に判断できる人間は自分を含めて誰もいないのである。


娘たちにはすくすくのびのび育ってほしい。
それを妨げる一番の障壁になり得るのもまた自分なのだと自分に言い聞かせる日々である。
エブエブは中断して考えたり心を落ち着かせてから観直したりできるよう、配信を待った方がいいのかもしれない。

無能の春

若い頃にSNSがなくてよかった。
10代の若者が「勢いとノリ」にまかせた結果インターネットで大炎上、というニュースが流れてくるたびに我々が言いがちなセリフである。
厳密に言えば我々(アラウンドフォーティガールたち)が10代の頃にも既にSNSの原型らしきものがあったのかもしれないが、一般的には普及していなかった。
趣味が合う友達を見つける手段といえば文通一択、ポケベルに憧れ、携帯に着メロの和音をせっせと打ち込み、写メに感激し、ようやくミクシーや同人系の個人サイトが盛んになった頃、我々はもう社会人になっていた。


世の中すっかり春である。
新年度が始まるたび、「若い頃にSNSがなくてよかった」と思う。
10代の炎上ニュースを見たときとはまた違うニュアンスで、心の底からつくづくそう思う。若い頃に、新卒の頃にSNSが今ほど普及していなくて本当に本当に本当によかった。
私はとにかく仕事がデキない。
上の人からの指示が理解できないときはまだマシで(分かりませんとその場で言えるからだ)、大抵指示の意味をトンチンカンに取り違えて理解しており、本人は理解しているつもりなもんだから質問もせず、仕事を進めた結果「そんなやり方しろって誰も言ってなくない!?」と驚かれる。
サラリーマンあるあるな常識、あるいは社内の空気的なルールのような、「普通こういうときは普通にこうするって普通なら新卒の時点でも普通に理解してるもの」みたいな、暗黙の了解の「普通な動き」を理解しておらず、普通さぁ……と「普通に」呆れられる。
一生懸命メモったことも、ちょっと忙しくなったり予想外の出来事が起こったりしたらもうダメだ。頭から中途半端に抜け落ちて作業がしっちゃかめっちゃかになる。
そのくせやる気だけは空回りするほどにあるのでよかれと思った動きが全て裏目に出て結局周りに余計な手間をかけてしまう。
そういう仕事のデキない人間に、「普通」の社会人がイライラしてしまうのはそりゃ仕方ないことなのだろう。迷惑かけてゴメンゴメン。いやマジでそう思ってるよ。
マジでそう思ってはいるんだけど、それはそれとして、「普通」の社会人経験者がSNSで「ウチの仕事できない新人のクソヤバエピソード笑」を披露しまくってるのを見かけるたび、あー私が新卒の頃SNSがこんなんじゃなくてマージでよかった助かった、とも思ってしまう。
関係者が見ればおそらく誰のことか分かるだろうな、というレベルのやらかしをネタツイートとしてペラペラ書き込む先輩、かなり嫌すぎる。
愚痴を吐きたくなる気持ちはもちろん分かるしガス抜きも大切だ。笑いに変えなきゃやってらんねえという環境なのも同情する。けれどやっぱり「書き込まれる側の人間」としては、「こんな無能、非常識な新人にヤレヤレと感じる無能、非常識でない自分たち」がゾロゾロ湧き出る新年度の空気に、ヒエエヒエエとビビってしまうのだった。


私が働き始めた頃にはミクシーがまあまあ普及していたので、職場の先輩たちの中には「クソヤバい使えねー新人のクソミス」について日記を書いていた人もいたかもしれない。
承認制で、拡散という概念もほぼない時代のSNSである。新人時代まあまあなやらかしをしてきた私だが、当時の私のヤバさが不特定多数にまで知れ渡ったとは考えにくい。先輩たちもそんなつもりでは書き込んでいないだろう。
そう考えると本当に今の時代の新卒の人たちは大変だなと思う。拡散、消費といった概念まみれのSNSに慣れた世代が上にたくさんいるのだから。


などと偉そうに被害者ぶって書いてきたが、私も私で会社の愚痴を若い頃はよく自分の個人サイトにぶつけていた。
今思えば「それは会社じゃなくてお前がダメなんだよ」という件もいくつかあったのだが、サイトに来てくれる人たちは誰一人としてそんなことは言わず、常に私の味方をしてくれた。
その人たちが私と同じようにダメな社会人だったから気づかなかったのかというと、決してそんなことはない。私が「それはうめめちゃんは悪くないよ」と判断してくれるような書き方を常にしていたから味方してくれただけだ。インターネットの仕事デキるデキない話はそういうところもある、と肝に銘じておきたい。


人間誰もが初心者の時期がある。
新人を甘やかせとか先輩だから我慢し続けろとは言わないが、インターネットで事細かに晒すのはちょっとだけ待ってあげてほしいなと、無能な元若者の私は思うのだった。

MANGA SICK

先日、幼馴染とご飯を食べた。
久々のちょっといい外食である。
全員テンションが最初からワイルドスピードメガマックスという感じだったのだが、懐かしい昔話と現在進行形のオタク話が混ざり合った結果「漫画雑誌の、応募者全員サービスの財布とかポーチとかバッグとか興奮したよね……」というネタが飛び出した瞬間のブチ上がり具合といったらすごかった。応募者全員サービス。ヤベエ。テレフォンカードとかもあったよね。ヤベエ。
子ども向けの娯楽が乏しかったあの頃、漫画雑誌は月に一度の生きがい更新コンテンツだった。
連載している漫画はもちろん、読者投稿コーナーから広告ページに至るまで、隅々まで何度も繰り返し読んで過ごしたものだ。毎月必ず買って毎日繰り返し読んでいるのだから内容もバッチリ頭に入っているのに、わざわざ「前回までのあらすじと登場人物紹介」も読んでいた。マジで娯楽の少なかった時代だったな。
私は筋金入りのりぼんっ子だった。
初めて買ってもらったりぼんには「ハンサムな彼女」「有閑倶楽部」「天使なんかじゃない」「姫ちゃんのリボン」「こいつら100%伝説」などが掲載されていた。それまで漫画に触れたことがほぼなかったので(両親とも漫画を読む文化に触れずに育った終戦直後世代である)、この世には漫画だけで構成された雑誌があるということにまず驚いた。
そしてその中身の華やかさといったらもう、田舎の小学生にはあまりにも眩しく美しく感じられ、連載途中で話もキャラもよう分からん漫画ばかりだというのにページをめくる手が止められず、こうして私はあっという間にりぼんっ子と化したわけだ。
恋愛の機微など全く分からない子どもだったが、「おしゃれなお姉さんたちの毎日」を眺めていることが多分楽しかったのだ。
姫ちゃんのリボンなんかは恋愛の機微より「こ、ここで次号へ続くの!?ここから話を続けるとか出来るの!?この衝撃展開で!?どうなっちゃうんだよ〜!!」とハラハラさせる引きの方が印象に残っている。連載だと本当に毎回毎回いいところ、ハラハラするところ、衝撃の展開で決まって次号に続き、一ヶ月ソワソワさせられっぱなしだった。水沢先生は本当に連載が上手い漫画家さんなんだろうなと思う。姫ちゃんのリボン、今思い返すと姫ちゃんかなりハードな目に遭ってるよね。


「ねこねこ幻想曲」や「くるみの森」といった、恋愛要素がさほど前に出ず、動物が活躍する漫画もお気に入りだった。これはりぼん以外の少女漫画でも当てはまりがちで、「動物のお医者さん」「みかん絵日記」「まっすぐにいこう。」なんかも昔から大好きである。オタクが好きになる少女漫画、動物が出張っていがち説を推したい。
当時のりぼんは時々本気で怖い絵柄のホラーやガッチガチのファンタジーなんかの読切もよく載っており、そういうところで私のオタク魂は少しずつ揺り動かされていたのではないかと思う。鬼が復活するとか悪霊を退治するとか超能力を持って生まれた生き別れの双子とかそういうやつである。
郡まきお先生が好きで読切が載っているといつもおそるおそるページをめくっていた。あの独特の世界観は忘れられない。線が細くやや尖った手書きの文字まで覚えている。
そんな郡まきお先生が作者紹介ページで自らをモスラみたいなキャラで描いて「こーりまきおや。」みたいに書いてたのすごく面白かったな。


あの頃のりぼんはそんな感じで何から何まで読み込んで楽しんでいたのだが、特に私が好きだったのは谷川史子先生の漫画である。
どちらかといえばほんわかとした絵柄だけど、出てくるのは自分の意思や内的世界がハッキリしている女の子たちが多く、おしゃれに全く興味がない女の子が普通に存在していて普通に扱われる世界観、ちょいちょい滲み出る文学っていいよね感、登場人物たちが暮らす叙情的な街の雰囲気、全てがドンピシャで憧れた。
一番好きなのは各駅停車である。映画でも漫画でも群像劇ものが昔から好きだ。


嗚呼我らが青春の少女漫画雑誌よ、とひとしきり懐かしみ、それはそれとして今の子らにあの頃と同じ興奮を雑誌で味わえっていうのは確かに無理あるよなーと冷静にもなった。
一ヶ月間同じ雑誌を繰り返し繰り返し読んで、よく分からない内容やあんまり合わない内容の漫画もとりあえず何ヶ月か読んでみて、みたいなことは子ども向けの娯楽が極端に少なかった時代だからこその楽しみ方である。別にどっちがいいとか悪いとかではない話だと思う。


我が家の娘たちはわりと本が好きな方だ。
かいけつゾロリ、ナツカのおばけシリーズ、ミルキー杉山の名探偵シリーズ、キャベたまたんてい、ルルとララシリーズなどなど、定番の児童書たちは我が家でも数年前から大人気だ。完全に親の趣味でしかないジャンルの洋画も一緒によく観ていて、意外とストーリーをちゃんと理解しているように思える。
とりあえず娯楽性が高い物語はひととおり楽しんでいるのだが、その中では漫画への興味は比較的薄い。
別に一切読まないというわけではないのだが、今読んでいる漫画は魔入りました!入間くんのみである。二人とも入間くんで漫画を学んだといっても過言ではない。
入間くんのおかげで私は娘から「ママったらまた漫画ばっかり読んでダラダラして……漫画の何がそんなに面白いんだか全然分かんないわね……コラッママッ!マジメに人生やりなさーい!」などと怒られずにすんでいるというわけだ。ありがとう入間くん。こんなママでメンゴメンゴ。
ただ少女漫画雑誌好きっ子だったオタクとしてはもう少し色々漫画トークできたら楽しそう〜という気持ちがあり、動物のお医者さんとかもメチャクチャいいよ〜ほらほらちびまる子ちゃんもここにあるよ、あっ谷川史子先生の漫画は全部揃ってるからまかせてネッ!などとマイ本棚の中身をニチャニチャ説明したいところなのだが、それをやったら親として終わりだなと思ってぐっと堪えている。たまに娘たちの目線に合わせてこっそり手に取りやすい位置にそれらを移動させたりはしているが。
趣味の押し付けはよくない。それが親からだともう最悪である。グッとこらえて知らん顔をしつつ、俺はやるぜ俺はやるぜと今日も家の中で一人少女漫画ネタをつぶやいている。

タイムマシンにお願い

キー・ホイ・クァンがオスカーを手にした。
そのニュースを聞いたとき、8歳と6歳の娘たちのリアクションは「ふーん」だった。テレビの中で知らないおじさんが喜んでいる。まあ、そりゃ「ふーん」だろう。
グーニーズインディ・ジョーンズに出てたあの子やよ、と説明した途端「ふーん」は「ウソやろぉ!?」に塗り替えられた。娘たちがそれらを観たのはほんの1、2年前である。ずっと昔の映画だと頭では分かっていても、つい最近感情移入しまくりで観たあの少年がこのおじさんだという事実がピンとこなかったらしい。
「なんか私今バックトゥザ・フューチャーの主人公になったみたい」とテレビを眺めながら長女がしみじみと呟いた。なるほど。うまいことを言う。
我々世代は「長年の空白期間を乗り越えて俳優に復帰」というドラマ性につい注目してしまうけれど、娘たちにはその空白期間が実感できない。かっこいい同世代の冒険ボーイという点からオスカー受賞おじさんの点に、一気に飛んでしまっている。データ嬉しい結果でよかったな〜などと、完全にクラスメイトと接するノリで親より年上のおじさんに向かって声をかけている。
ハリソン・フォードには別にそこまでのリアクションはなかった。「同世代」と「おじさん」は別物だが、「若めのおじさん」と「おじいさん」は子どもにとってさほど差がないのかもしれない。特にハリソン・フォードはシュッとした感じのまま年を重ねているし。
ある一定の年齢より上の大人に対して、まだ想像の中でその人生を把握することができないというのもあるだろう。中学生がめちゃくちゃ大人に感じるお年頃である。
逆に私はトム・ホランドをいつまで親戚の小さな子のように感じ続けるのだろうか。高校生くらいのイメージで時が止まっているため、毎年毎年年齢を聞くたびあーれっさもう26かね、などと田舎のおばちゃんリアクションをキメてしまう。まあ26とか全然若いのだが、トム・ホランドが40超えても同じことを言ってしまう予感がする。
よその子の成長は早い、とよく言うが、まさにそれだ。この前ハイハイしていたはずの近所の子が自転車を乗り回しながらどうもお久しぶりです、などとハキハキ挨拶なんかしてくる。自分がコールドスリープから目覚めたばかりの人間に思えてくるほど、よその子の成長は早い。
おじさんおばさん俳優がおじいさんおばあさん役を渋く演じるようになった、というのにはまるで感じない感情である。しみじみと年月経ったもんなぁ、とかあの頃私も若かったなー、あの頃あれ観てこんなこと真似したなぁ、とかそんな感傷は湧いてもタイムスリップ感はない。
更に年月を重ねて老人になったらまた感じ方が変わるのだろうか。百歳になっても新しい映画を観てあーだこーだ言えるなら幸いである。
とにかくキー・ホイ・クァン、おめでとう。

はじめての「破ァッ」

書類が見つからない。
縦長の封筒の状態でもらって、中身を確認して記入して三つ折りにして再度封筒に入れて、そこまでは確かに覚えがあるのだが、その封筒をどこにしまったのか全然記憶にござらない。ヤバい。
カバンの中身を全て床にぶちまけてみる。印字がかすれきったレシート、断れず受け取ったものの一文字も読んでいない習い事のパンフレット、半年ほど前の保護者会で配られ読み上げられ、その場で役目を終えたプリントなどがクシャクシャボロボロに固まった状態でバサ、ドサ、と落っこちてきた。いらない何も、何故はよ捨ててしまわへんのや、と私の頭の中の稲葉さんが謎の関西弁で説教をしてくる。肝心の書類は入っていなかった。
つくづく私は退魔師に向かない女だな。
散らかったゴミの中心に立ち尽くしてそんなことを思った。


令和に生きる子どもたちでも、異能力バトルごっこをするとき大抵「破ァッ」をやる。手のひらを突き出すアレだ。
ママは悪者役ね!と誘われるたびに(やれやれ、ママはもう30年以上オタクやってるんだからね?破ァッ系の悪者役とか強者感出すぎちゃうよ……?)などと経験者ぶった気持ちを込めて「破ァッ!!!!!」と誰よりもデカい声でやっている。子どもたちを悪役として煽るときはもちろん胡散臭い笑顔の敬語キャラだ。メガネを煌めかせることも忘れない。どうだオタクだろう。
今も昔も「破ァッ」にかっこよさを感じない子どもはいない。しかし今の子どもたちは一体どこで「破ァッ」を覚えてくるのだろう。呪術廻戦とかでやっているのだろうか。
そういえば私が初めて知った「破ァッ」てなんだろう。
遠い記憶を探ってみる。やはりCLAMPの「東京バビロン」だろうか。いや、それより楠桂の「あくまでラブコメ」の方が先じゃないか?意外とそのあたりが曖昧である。昔のりぼんはホラーっぽいノリの漫画が結構載っていた。そのあたりの読み切りなんかも可能性が高い。
周りの人間に「はじめての『破ァッ』て何だった?」という聞き取りをしてみたところ、ぶっちぎりで「かめはめ波」という答えが返ってきた。
私の周りは40代前後、ほぼ非オタ、という人間がほとんどなので、まあこの答えになるのは仕方ない。
けれど「かめはめ波」は私のいう「破ァッ」からはちょっとズレている。もっとこう、めんどくさくてちょっと暗い感じの「破ァッ」をイメージしてほしいのだ。
印を結んだり呪文を唱えたりお札をシャーッと飛ばしたりする、手順的なものを含む感じといえばお分りいただけるだろうか。
手順をきちんと確認、漏れなく巡行、シーンに応じて応用、全て苦手すぎる作業なのだが、だからこそだろうか、そういうノリが私にはめちゃくちゃかっこよく見える。
実際の私はあやとりや手遊びがめちゃくちゃ苦手でちっとも覚えられないし説明図を見ても「何でここからこうなるんだ?」って感じだし、暗記も不得手で音読は大の苦手、大事な紙をなくしたりクシャクシャにしたりするのは大得意である。致命的に退魔師に向いていない。
バトル現場で皺一つないピンピンのお札を取り出して戦うとか絶対無理である。忘れ物も多いし。
焚き火の前でウンタラカンタラ祈祷するサポート役ならどうかなと思ったが、あーこの時間見逃してるツイートたくさんありそう……はよTL見たい、などと途中で集中力をインターネットに持っていかれて祈祷パワーが全然続かなさそうだ。
ここまで退魔に向かない女もなかなかおるまい、と思いつつもやっぱり「破ァッ」への憧れは止められない。アラウンドフォーティーガールだって「破ァッ」したい。現代社会の中で(現代社会の中で、というのもポイントである)闇と戦って時々一般人に「あ、あなたは一体……」とか言われたい。「知らない方がいい……」とか今更そんなん言うなよみたいなことを警告しつつ「ハッ……『来る』!危ない下がって!」とか言って事情ミリ知らの一般人の前で破ァッ系の専門用語を駆使して守りたい。
こう書き連ねていると、つくづくCLAMP楠桂を幼き頃に読む、という意味について考えさせられる。Xってどうなったの?


かめはめ波とかめっちゃ真似したわ〜休み時間に友達と教室でふざけてやってた〜懐い〜」みたいなカラッとした答えに「いや小生が欲する『破ァッ』はそういう感じではござらんのでござるよ薫殿……」みたいな返事はできなかった。我々世代はオタクであることをかなりネガティブに取られる時代に青春を送ってきた。その記憶がまだどこかでブレーキの役割を果たしているのだろう。なかなか「破ァッ」の話を突っ込んでいけず、ムムムあくまでラブコメ……ムムム十兵衛……と一人記憶を探っている。
これが少し下の世代になるとカラッとしつつもオタクっ気をまるで隠さなくなるので面白い。
ママ友たちがうちの子はポケモンピカチュウ、うちのお兄ちゃんは妖怪ウォッチのジバニャンだった、などと子どもが好きなマスコットキャラクターの話で盛り上がっていたとき、「私レイアースモコナとか好きやった」とカラッと挙げた人がおり、思わず「モ、モコナッ!?」などと裏声で叫んでしまった。この流れで自分の好きなキャラ、しかもCLAMPネタを出せるのは強い。強すぎる。
いつかこの人と「破ァッ(印を結んだり呪文を唱えたりお札をシャーってしたりを含む)」ごっこをしてみたいものである。きっと本気で戦ってくれる気がする。

女の一生

ここ一年ほど、図書館や本屋の、児童向け伝記コーナーによく立ち寄っている。長女が伝記の面白さに目覚めたからだ。
私が子どもの頃、伝記といえば「図書室に置いてある唯一の漫画」「漫画っぽい挿絵でも親に買ってもらいやすいジャンル」「これを読んで立派になってほしいという大人の圧をほんのり感じる」という印象だった。
そんな私の子ども時代から考えると、今の伝記コーナーの充実っぷりには驚かされる。オシャレな挿絵や各時代の分かりやすい解説、面白い小エピソードなどがたくさん載っており、低学年でも馴染みやすい本がたくさんある。
何より女性の伝記が昔よりとても多い。
私は伝記に漫画っぽさを求めて読んでいた程度の人間なので、この一年、子どもと共に「こんなすごい女性がこの世にいたのか」を何度も体験した。
女性の偉人のみを集めて簡単に紹介している本もたくさん出ているが、そこで紹介されている人の半分も知らなかった、ということはザラである。お恥ずかしい限りだ。
言い訳させてもらうとすれば、昔はファッション関係の伝記や、最近まで存命だった人の伝記ってあまりなかった気がする。ただ単に田舎で本の品揃えが悪く、私が出会っていなかっただけなのかもしれないが。
細かい業種の細かい偉人がピックアップされるようになったのはいいことだと思う。すごい女は大昔に大立ち回りした女しか存在しません、では夢がない。
研究が進んで「実はこのすごいあれこれにはこんな女性が関わっていた」と後から発覚することが増えたのかもしれないし、この30年ほどで女性が活躍する場が増えた(増える土台を作った先人の女性がようやく評価されるようになった)というのも関係しているのかもしれない。何にせよ、今を生きる女の子たちが自分の将来に対し憧れや興味を持ちやすい本が増えるのはいいことだ。


昔からお馴染みの女性の伝記も、今は描かれ方が違っていて面白い。
「ママたちが子どもの頃、マリー・キュリーは大抵キュリー夫人てタイトルの伝記だったよ」と言うと「何で?『夫人』は名前と違うやん」と8歳児に呆れられた。全くもってその通りなのだが、30数年ほど前の8歳児はそんな当たり前のことに気づかなかった。タイトル1つにも意識の差がある。
ナイチンゲールといえば昔は心優しいお世話好きな女の子というイメージで語られていた記憶があるが、最近の本では理知的な部分やど根性でしぶとく粘る姿の方がしっかり描かれている。ナイチンゲールが人生のほとんどで母や姉とうまくいっていなかったというのも私は知らなかった。お互い家族愛がないわけじゃないけど根が合わんし正直結構無理なときあるわ、みたいな事実を子どもの頃に知っていたら、もっと彼女を身近に感じていたかもしれない。
私の読み方がひねくれていたのか、どうも昔の女の人の伝記は「特別賢くてけなげな頑張り屋さん」か「とにかくやたらと気が強くて男勝り」に寄っている感じがあって、子ども心にいまいちどちらも乗れなかった。あまりにも現代の共感ポイントに寄せて描くのも問題だとは思うが、女性の偉人を美化しすぎないのはいいんじゃないかな。
もちろん今の伝記でも描写は完璧というわけではなく、「女エジソン」や「レディ・リンディ」と呼ばれた、みたいな史実が名誉なニュアンスで書かれているものもある。
けれど今を生きる娘たちには、それは褒め言葉に聞こえない。なんでわざわざ男にちなんだのか、それを何故今よさげに書くのか、という素朴な疑問が先にくるのだ。子どもといえど文章のニュアンスには敏感である。そのへん親の自分も言葉に気をつけんと怖いなと思う。


今も昔も伝記で印象に残っているエピソードといえば、マリー・キュリーが極貧時代、寒さをしのぐために椅子を体の上に乗せて寝たという話である。重みがあると暖かくなった気がするわ、みたいなセリフに衝撃を受けた。ラジウムの発見云々はぼんやりとしか覚えていないが、椅子を布団扱いした話は結構長い間記憶に残っていた。私がマリーなら人生全部読んでそこなのかよ、とツッコミを入れたくなるところだ。
真冬にもかかわらず電気代がアホみたいに高くなっていく昨今である。
いつかもし薪が尽きて凍える夜が来たら、椅子を体に乗せるテクを真似してみようと考えている。

ママレード・ボーイとパートのおばさん

子どもの頃、ママレード・ボーイを毎月楽しく読んでいた。
ママレード・ボーイとはりぼんで連載されていた漫画で、吉住渉先生の代表作のひとつである。主人公の両親が離婚して別の夫婦とお互いのパートナーを交換して再婚してひとつ屋根の下で全員まとめて同居することになり、主人公はそこの息子とエエ感じになる、という倫理感がミキサーで粉砕されたような設定なのだが、当時は子どもだったのでそのヤバさに気づかず普通に読んでいた。
そのママレード・ボーイには蛍くんという少年が登場する。主人公の光希がバイトを始めたアイスクリームショップで先に働いていた少年だ。
彼は実は将来を期待された天才ピアニストだったのだが、周りからピアノ漬けにされる毎日に疲れ果て、今はピアノから遠ざかり、本を読んだり音楽とは無縁のバイトをしたりして過ごしている。そう打ち明けられた直後に光希は「せっかく才能があるのにもったいない」と呟き、彼の逆鱗に触れてしまう。
才能があったら絶対それをやらなくてはいけないのか、という蛍くんの叫びは、当時何の才能もない子どもだった私にはなかなかの衝撃だった。
衝撃だったのだが、その後彼がどうなったのかはわりとうろ覚えである。そこからすぐ恋愛絡みの展開になってなんだかんだやってるうちにやれやれピアノまたやるか〜好きなのはまあ確かに好きやしなみたいな流れになったような気がする。今こうして書いていてもその辺りの記憶が全然蘇ってこないので、本当にうろ覚えすぎてびっくりする。まるで違うオチだったかもしれない。そうならごめん。
その後がどうあれ、とにかく「才能があったら絶対それをやらなきゃいけないのか」という視点が描かれたことが私にとっては重要だった。それは才能がない私の人生には存在していなかった、新しい「怒り」の視点だったからだ。


女性の雇用問題について語られるとき、「優秀な女性が子どもを産み育てる選択をしたことにより社会にうまく復帰できず、専業主婦やパートのおばさんに甘んじている現状」という物言いがよくされる。
実際仕事したくてたまらない優秀な女性が、自身の意欲や優秀さとは別の問題のせいで自分に合った仕事をさせてもらえない、という現状はどうにかすべきである。そこが最優先事項なのは間違いない。だからその悲惨さを打ち出す物言いは正しいのだろう。
それを社会に向けて言うのは別にいいのだが、そういう感情を直接専業主婦やパートのおばさん個人に向けてしまうときはちょっと気をつけてほしいな、とは思う。専業主婦やパートのおばさんの未来を思って言ってくれてるのはわかるから、難しいとは思うけど。


子育てに正解はない。周りを見ても自分の育児を振り返ってもつくづくそう思う。
ハチャメチャ有能なキャリアウーマンが母親業に悪戦苦闘したり、よく解雇されねーなというやばい仕事っぷりの人が素晴らしい親子関係を育んでいたり、本当に育児はやってみなけりゃわからないパターンばかりである。
一対一で子育てするより仕事しつつ母親やるのが性に合ってる人もいれば、マルチタスクは追い詰められやすいから子育てに集中した方が楽という人もおり、当然生まれてきた子の健康状態や性格や相性や環境によってこちらのベストな状態は変わっていくし、そこは誰にも分からない。分からないなりに手探りで決めていくしかない。
産んだ本人ですら分からないことなのに、「あなたみたいな優秀な人が子育てなんかで仕事をやめるなんてもったいない」「仕事やめたら簡単に復帰できないって知らないのかな?あなたみたいに優秀な人でもパートに成り下がっちゃうんだよ」「どんなに両立がしんどくても仕事をやめたらあなたの人生終わるよ?せっかく優秀なんだからなんとか我慢して働いた方が賢いよ」はめちゃくちゃ気軽に直接言われてしまう。これらはみんな褒め言葉やアドバイスのつもりだからだ。
そう言ったのと同じ口で「子どもの都合で休まれるの迷惑だからさっさと辞めてほしい」「好きで産んだくせに周りに迷惑かけないで」「あの部署の誰々さん(子が健康とか実家が近くて協力的とか)はこんなにも両立できてる、誰々さんに比べたら他の子持ちは甘えてる」とか言い出すパターンの多さにはびっくりするが。
ただでさえ手探りで決断するしかない産前産後に、「出産育児と仕事が両立できない人間は近い将来必ず詰む」と直接言われてしまうのはなかなかきつい。
幸い私は非常に運が良く、子育て一本に集中するのに向いてないな、と思ったら早々に切り替えて職場復帰ができた。本当にありがたいことに、ごくごく短い時間からスタートして、徐々に長く、時にまた短く、とかなり融通を利かせてもらえたので私のようなポンコツ人間でもなんとか社会に戻ってこれた。
本当に私は運が良かった。でもこういうのが運で決まってしまうのはそれこそ「もったいない」ことじゃないのか。個人ではマジで運に翻弄されるしかない。社会が変わらなければいけない問題だ。
もったいない、は社会に言うべきであって、決断後の個人に向けるべきではない。相手はいい大人である。この世にありがちな仕事と家庭の問題くらい理解している。今出産するような世代はだいたい生まれた時からずっと不景気な世の中を見続けているのだ。
若い頃、「結婚して子どもを産まなきゃ悲惨な人生になるよ」と我々世代は言われてきた。女は結婚して子どもを産まなきゃ肩身の狭い思いをするように社会ができていたからだ。だからみんな、本当によかれと思ったアドバイスのつもりで「こういう社会なんだからこういう生き方しなきゃ将来詰むよ」と言ってくれたのだろう。
今でも若い女に対する結婚出産の圧は異常だが、結婚出産に縛られる社会の方がおかしいんだよという声は昔よりずっと大きくなり、社会に圧をかけ返しているように感じる。いいぞいいぞもっとやれ。
どんな選択をしても気軽にやり直したり持ち直したりできる社会になってほしい。特に先の見えにくい問題に関しては。


ママレード・ボーイの後半の記憶は相変わらず蘇ってこないが、作者があとがきで「最後にキャラみんなカップル成立してくっつくのってダサいと思ってたけど、ママレードボーイの場合はまあアリかなってなった」みたいなことを描いていたのは覚えている。
サイドキャラ同士がどんどんカップルになってくの、やっぱり描いてる側もダサいって思ってたんだ……!と妙に感動したものだ。あれよっぽどうまくやらないとやっぱり冷めるよね。お手頃感がつらい。
とりあえず蛍くんがどうなったのか、今度ちゃんと読み返してみようかなと考えている。