母親とかいうヤバいやつ

エブエブをまだ観ていない。
キーホイクァンおめでとうのブログを書いてからもう結構経つのだが、まだ観ていない。観るのが怖くなってしまったからだ。
私には二人の娘がいる。この春から小学三年生と一年生だ。私の知らない人間たちとの関係性を深め、私の知らない世界を既にがっつり築いている。楽しそうで何よりだと思うし、正直なところ、手が離れてほっとしている部分がかなり大きい。私には私の趣味や時間があるべきだとも考えている。
それでもまだエブエブを観るのが怖い。自分が「不正解」な感想を持ってしまうかもしれないのが怖い。
少し前にエブエブを観た人が「自分の子どもを尊重している人ほど母と娘のあの結末にムッとなるんじゃないか」という感想をツイートしていた。
その人個人の感想でしかないのだが、そのツイートにはそれなりのイイねが、つまり賛同があったし、ご本人もしょっちゅう肯定的な意味でのリツイートが流れてくる人である。
私はすっかり怖くなってしまった。
もしエブエブを観て、結末にムッとした感情が湧かなかったらどうしよう。
子どもは子ども、私は私、別の人間であり人生の責任は自分で取るしかないと日頃から意識しているつもりだが、所詮今の私は子どもにとっては絶対的な支配者である。子どもを100パーセント尊重できている自信はない。そんな瞬間あったことがない。
様々な人によるエブエブの感想が、一時期常に私のタイムラインに流れ続けていた。母と娘、という関係性の根深さ、脆さ、一方的な負荷具合について思い知らされ続け、私は私の未来の感想にすっかりびびってしまったのだ。親に苦しめられた人たちと方向性の違う感想が生まれてしまったとき、私は自分を邪悪な支配者であると、きちんと受け止められるだろうか。
これが「親と子」というテーマについての感想でなければ、ここまで他人の感想を気にすることはなかった。一人一人の感想は違っていて当たり前、読み解き方に正解不正解はあっても感じ方にそれはない、私はいつもそう考えている。
けれど「親と子」に関してはダメだ。私はそのテーマに関してはもう親である視点を完全に排除することができない。親としていい話だったナァと思ったものが子にとっては地獄のようなバッドエンドに感じられる、その落差を正確に読み取ることはもうできないと思う。親に都合のいい物語に対して無自覚に甘くなっていると考えたほうがいい。それでもおそらく足りないほどだ。
そもそも、私は賢い人間ではない。
フェミニストならみんな好きだよね、という「お嬢さん」も正直辛いところがありあまり合わなかった。利発な女の子のためのお話とされる「ブックスマート」もピンとこない。なんかもう人間のレベルが違いすぎる。
それらを「私のための映画」だと思える人たちが、母と娘の距離感について娘の立場から親の行動をジャッジしたくなるエブエブを、私のようなスットロい人間が観て正確に理解できるのだろうか。親としてのヤバさを突きつけられるだけにならないだろうか。
もちろん親である以上そのヤバさとは向き合わなければならないと分かってはいる。親は子にとって常にヤバい存在だ。それを自覚することを怖がってはいけない。分かっていても怖い。途方に暮れる。観に行きたいけど観に行けない。親として観るべきだ、そして親として自戒を込めるべきだと思いつつ今日もグズグズ上映時間を逃している。


「春にして君を離れ」を最初に読んだとき、私はまだ「娘」だった。
「春にして君を離れ」は面白かった。親が正しいとは限らない、賢いと思って言ったりやったりしてきたことが視野の狭い愚かな行為だったかもしれない、と親自身が自覚していく様に、仄暗い爽快感を覚えた。
「母親」になった今、仄暗い恐怖を覚えつつ時々読み返している。小馬鹿にしていた主人公と同じ道を自分が歩んでいないか振り返るためにだ。
娘だった頃に触れた、いわゆる「毒親もの(毒親という物言いはあまりいいと思わないのだが)」はまだ心して読んだり観たりできる。娘だったときの親や大人に対して抱けた純粋で一方的なムカつきが思い出せる。
今は親もこういうとき仕方ないことあるし、親も人間だし、などと考えてしまっていけない。その考えが行きすぎていないかどうか、正確に判断できる人間は自分を含めて誰もいないのである。


娘たちにはすくすくのびのび育ってほしい。
それを妨げる一番の障壁になり得るのもまた自分なのだと自分に言い聞かせる日々である。
エブエブは中断して考えたり心を落ち着かせてから観直したりできるよう、配信を待った方がいいのかもしれない。