夜のスキマにTweet投げてよ

娘たちが子ども部屋で寝るようになった。
こんなに早くに子どもだけで寝られるようになるとは思っていなかったのでまだ部屋は未完成もいいところなのだが、それはそれで二人ともとても楽しそうだ。9時を過ぎればさっさと二人で部屋に入っていく。寝かしつけや眠るまでの見守り(からの自らも寝落ちやらかし)がなくなったというわけだ。
自由な夜なんて何年ぶりだろう。
これが映画なら「『待たせたな……』じゃじゃ〜ん!!ついにあの『ヨル』が帰ってきた!!前回よりも興奮度がパワーアップ!ハチャメチャな『ヨル』をドンミスイッ!」みたいな予告になること間違いなしである。ヤバい。夜が楽しい。ヤバい。
最初こそ洗い物なんかの残した家事を大人しくこなすことに専念していた。
(寝落ちして変な時間に起きてうあーあれやってないこれやってないクソ……)てダルい気持ちでやらなくてもいいなんて最高、スッキリ寝るのってイイネ、丁寧な暮らしができそう、などと思っていたものだ。
が、自由な夜というのはマジで自由で、どこか誘惑的な空気が漂っている。
私の夜はやり残した家事を明日の私にまかせ、深夜まで映画を観たり本を読んだりするスタイルにあっさり切り替わった。もう最高である。
朝起きる時間は変わっていないので当然ダルい気持ちでやり残した家事を慌てて片付けなくてはならないのだが、文化的な時間が確保されたという満足感が私を頑張らせてくれた。丁寧な暮らしよりダルさを先延ばしにして享楽的な時間を過ごす方が私にはお似合いなのだ。
この自由な夜を贅沢に過ごす行為は今さらにエスカレートしている。
なんと、自分一人でベッドに入り、ベッドの中でスマホをダラダラ眺めて寝落ちするという究極の無駄時間を過ごしているのである。
娘たちと一緒に寝るときは当然スマホなど触れるわけもなく、必要な返信や確認も出来ないままベッドに入り、子どもの入眠に良いとされる寝かしつけテクを駆使し、時々飛んでくる寝相悪しキックや寝相ヤバしパンチに呻きながら窮屈な姿勢で眠り続けて体の節々を痛めていた。
それが今はベッドの中で手足を伸ばし、一生見なくても問題ないサイトをダラダラダラダラスクロールしていられるのだ。ヤバい。夜が楽しい。本当にヤバい。めちゃくちゃ楽しくて仕方ない。
どうでもいいツイート、作る気のない料理のレシピ、全然先が気にならない無料配信の漫画、何がしたいのかよくわからない短い動画、そんなものを眺めて時間を消費する行為がやめられない。三井が見たら「お前は何故そんな無駄な時間を……」と涙を流すことだろう(でも私は三井のあの時間もそれほど無駄だったとは思えないが)
突然スラダンネタを混ぜ込んでしまうくらいには夜の無駄な時間を楽しんでいる私である。今の私は過ごし方が無駄であればあるほど夜を取り戻せている気になれるのだ。
朝は3時半に起きないと色々間に合わない生活をしているので睡眠時間はどんどんヤバいことになっている。夕方ウトウトしてしまうこともしょっちゅうだ。でもあんまり気にしてない。いざとなったら今夜はサッと寝よう、という選択肢も取れるからだ。どんな夜を過ごすか自分で選べる、その安心感がヤバさを加速させていく。
「どんな夜を過ごすか自分で選べる」ということがいかに贅沢で、奇跡的で、素晴らしいことなのか、お分かりいただけただろうか。
たまに娘ちゃんたちが独り立ちしてさみしくない?と訊かれるが全然さみしくない。冷たい母親と言われそうだが向こうは向こうで子どもだけの夜を結構楽しんでいるっぽいし(子ども部屋の中からコソコソ楽しそうにおしゃべりしているのが聞こえ漏れてくる)、さみしくなったらそのときはまた一緒に寝れば別によくない?というスタンスだ。こういう母親も世の中にはいます!と言っておかないとすぐ母性神話で括られるのでここにはっきり書いておく。子どもと寝なくてもさみしくないことと子どもに愛情があることが両立する母親もいます。


そんなわけでどうでもいいツイートを眺めてキャッキャしているのだが、ツイッターから引っ越すだの有料になったらじゃんじゃんお金払うぜだのといったツイートが最近目立つ。
引っ越すというのはまあ分かる。SNSっていったらツイッターじゃなきゃもうダメなの、という気持ちは私も強いが、20年近く前は同じ気持ちをミクシーに対して持っていた。あの頃の若者たち、暇さえあればミクシー見てますわ足あとハズいっすわみたいな感じだったじゃん。今はもうパスワード忘れちゃって入れない人いっぱいいるからね。
だから変わったら変わったで、その場所でそれなりに馴染むんじゃなかろうか。
有料化超歓迎むしろお金払わせてくれこの手でツイッターを黒字にさせてくれ、というのもまあまあ分かる。労力に見合わない労働をさせられている社員に腰掛けてツイートする気になれない、というのは、人情として当たり前だ。
ただ学生や働くのが難しい人には今まで通り無料で使わせてやってくれんかのう、そのぶん働いとる人間が多めに払うとかしてくれていいからのう、というところまで付け足したい。
どうでもいいツイートで時間を潰す、という行為は、無駄だけど無駄じゃない。自由な夜にやり込んでみてつくづくそう思った。
無駄じゃないことも書いてあるし、学びや気づきがあるし、などと思いつつスクロールし続けて最後の最後の寝落ち寸前に(いや、結構無駄なことしたな)とキロランケ化しながらスゥッと眠るのがベストだ。そういう体験はお金が自由にならない若者たちにこそ必要だと思う。
映画を倍速で観なきゃやりたいことがこなせない、漫画も厳選して隙間時間に読まなきゃ間に合わない、みたいな時代だが、ツイッターは老いも若きもみんな結構ダラダラ見ている気がする。そういうついうっかりのダラダラコンテンツはもはや貴重な存在だ。無駄なことしたなという気持ちも含めて大切な「若い頃の経験」だと思う。
そういう経験をしてほしい世代こそお金も余裕も全然ない。せめておしゃべりをしたり聞いたりする場くらいは安心してダラダラしてほしいとおばちゃんは願ってしまう。
お金がないから違法行為に手を染めてコソコソ無料で楽しむぜってなるくらいなら、大人が払ってやるから堂々とダラダラせえと言える方がいい。
有料化賛成の声を上げるのも大事だが、オタクの消費しぐさはちょっと過剰なので「いくらでも払う」「むしろ今すぐ払わせろください」「愛があれば課金したくなるはず」みたいなのが強まりすぎて若者が我が身を恥ずかしく思ってしまわないように気をつけたい。
これはPTAとかの保護者役員の話でも「めんどくさいから保護者会費一万くらい上げて全部業者に頼めば合理的!それくらい払ってみんなでやめようよ」系ツイートがちょいちょい回ってくるたびに思っていたことである。
そりゃ確かに合理的だし大勢の人がそうだそうだと言うだろう(だからよくツイートが流れてくるのだろう)。けれど本当にそれで全員オッケーなのか。一万どころか千円の値上げでも厳しい家庭は一世帯も存在しない学校なのだろうか。じゃあその人たちのぶんまで私が余分に払いますわと言ってくれるのだろうか。払うのが苦しい人たちがひそかに申し訳ない、情けない気持ちにならずにすむものだろうか。
役員仕事はそれこそガチの意味で無駄が多いし業者に頼んだ方がうまくいくものもあるけれど、簡単にお金で全て解決させろを通して大丈夫だとはあまり思えない。
私がケチなだけなのか、最近の消費しぐさの加速には少し不安を感じるときがある。もちろん対価を払うのは当然のことだが、それ以上のことを過剰な盛り方で強く叫ぶ必要は本当にあるのか、ちょっと考えた方がいいところまで来た気がする。
とにかく若者には時間やお金を気にせずのんびりとツイッターを巡ってほしい。意外と世の中は広くていろんな人がいてしょうもないことやってたりするんだな、とヘラヘラする機会は多ければ多いほど良いと思うから。