女の一生

ここ一年ほど、図書館や本屋の、児童向け伝記コーナーによく立ち寄っている。長女が伝記の面白さに目覚めたからだ。
私が子どもの頃、伝記といえば「図書室に置いてある唯一の漫画」「漫画っぽい挿絵でも親に買ってもらいやすいジャンル」「これを読んで立派になってほしいという大人の圧をほんのり感じる」という印象だった。
そんな私の子ども時代から考えると、今の伝記コーナーの充実っぷりには驚かされる。オシャレな挿絵や各時代の分かりやすい解説、面白い小エピソードなどがたくさん載っており、低学年でも馴染みやすい本がたくさんある。
何より女性の伝記が昔よりとても多い。
私は伝記に漫画っぽさを求めて読んでいた程度の人間なので、この一年、子どもと共に「こんなすごい女性がこの世にいたのか」を何度も体験した。
女性の偉人のみを集めて簡単に紹介している本もたくさん出ているが、そこで紹介されている人の半分も知らなかった、ということはザラである。お恥ずかしい限りだ。
言い訳させてもらうとすれば、昔はファッション関係の伝記や、最近まで存命だった人の伝記ってあまりなかった気がする。ただ単に田舎で本の品揃えが悪く、私が出会っていなかっただけなのかもしれないが。
細かい業種の細かい偉人がピックアップされるようになったのはいいことだと思う。すごい女は大昔に大立ち回りした女しか存在しません、では夢がない。
研究が進んで「実はこのすごいあれこれにはこんな女性が関わっていた」と後から発覚することが増えたのかもしれないし、この30年ほどで女性が活躍する場が増えた(増える土台を作った先人の女性がようやく評価されるようになった)というのも関係しているのかもしれない。何にせよ、今を生きる女の子たちが自分の将来に対し憧れや興味を持ちやすい本が増えるのはいいことだ。


昔からお馴染みの女性の伝記も、今は描かれ方が違っていて面白い。
「ママたちが子どもの頃、マリー・キュリーは大抵キュリー夫人てタイトルの伝記だったよ」と言うと「何で?『夫人』は名前と違うやん」と8歳児に呆れられた。全くもってその通りなのだが、30数年ほど前の8歳児はそんな当たり前のことに気づかなかった。タイトル1つにも意識の差がある。
ナイチンゲールといえば昔は心優しいお世話好きな女の子というイメージで語られていた記憶があるが、最近の本では理知的な部分やど根性でしぶとく粘る姿の方がしっかり描かれている。ナイチンゲールが人生のほとんどで母や姉とうまくいっていなかったというのも私は知らなかった。お互い家族愛がないわけじゃないけど根が合わんし正直結構無理なときあるわ、みたいな事実を子どもの頃に知っていたら、もっと彼女を身近に感じていたかもしれない。
私の読み方がひねくれていたのか、どうも昔の女の人の伝記は「特別賢くてけなげな頑張り屋さん」か「とにかくやたらと気が強くて男勝り」に寄っている感じがあって、子ども心にいまいちどちらも乗れなかった。あまりにも現代の共感ポイントに寄せて描くのも問題だとは思うが、女性の偉人を美化しすぎないのはいいんじゃないかな。
もちろん今の伝記でも描写は完璧というわけではなく、「女エジソン」や「レディ・リンディ」と呼ばれた、みたいな史実が名誉なニュアンスで書かれているものもある。
けれど今を生きる娘たちには、それは褒め言葉に聞こえない。なんでわざわざ男にちなんだのか、それを何故今よさげに書くのか、という素朴な疑問が先にくるのだ。子どもといえど文章のニュアンスには敏感である。そのへん親の自分も言葉に気をつけんと怖いなと思う。


今も昔も伝記で印象に残っているエピソードといえば、マリー・キュリーが極貧時代、寒さをしのぐために椅子を体の上に乗せて寝たという話である。重みがあると暖かくなった気がするわ、みたいなセリフに衝撃を受けた。ラジウムの発見云々はぼんやりとしか覚えていないが、椅子を布団扱いした話は結構長い間記憶に残っていた。私がマリーなら人生全部読んでそこなのかよ、とツッコミを入れたくなるところだ。
真冬にもかかわらず電気代がアホみたいに高くなっていく昨今である。
いつかもし薪が尽きて凍える夜が来たら、椅子を体に乗せるテクを真似してみようと考えている。