さよならトーマス(再掲)

近々、我が家のプラレールを知人に譲ることになった。
知人の知り合いの子が最近電車に「目覚め」たのだという。
かつて長女が電車に「目覚め」ていた頃、同じように周りから譲ってもらったり自分たちでちびちびと買い足したりしたプラレールたちが我が家には大量にある。かつては毎日床中を線路が走り、絶妙に邪魔なところに駅や信号機や機関庫が立ち並んでいたものだが、ここ最近はあまり見かけなくなっていた。
長女に確認すると、映画撮影ごっこ用のいくつかを残して後は全部譲るよとのことだった。予想通りの答えだ。長女が電車に「目覚め」ていたのは2歳前から5歳になるかならないかのあたりだったと思う。今彼女はもう7歳である。鬼滅の刃とすみっコぐらしに夢中の小学生だ。
そんなわけでプラレールの整理を始めたのだが、次から次へとトーマスのキャラクターたちが発掘される。長女はトーマスが大好きだった。
ハッピーセットがトーマスのときは家族全員でハッピーセットを食べに行ったし、レンタルビデオ店でトーマスの映画を次から次へと借りては観て借りては観て、買い与えたトーマスの図鑑や百科事典はどちらもすぐボロボロになるほど読み込まれた。
長女がトーマスにハマりだした頃、次女を妊娠していた私は前期破水で緊急入院することになった。退院後も絶対安静が続き、あまり長女にかまってやれない日々だったが、トーマスが側にいれば私も安心できた。トーマスはいつどんなときも長女に絶対的な愛と笑いをもたらす存在だった。
こう書くとまるでトーマスが聖母のような存在に思えるが全くそんなことはない。
トーマスの世界の機関車たちはだいたいみんな自分のことばかり考えている。役に立ちたいという志はあるものの、役に立つアピールができそうとあればアピールを優先してしまい本末転倒な結果になったり、ミスをした同僚に皮肉を言ったり、言われた方も即座に痛烈な皮肉を返したり、すぐ調子に乗ったり落ち込んで情緒不安定になったり、まあ遠慮というものがない。教訓的な物語としてのオチはかなり強引に持っていったなと思う回も結構多い。笑いのノリはなかなかにスラップスティックである。
そこがクセになるのだろうか。志高く働きつつも自滅的なポカをやらかす、あの独特のノリにいつのまにか笑ってしまう。あっという間に家族みんながトーマスを好きになった。
そして現在、プラレールたちの中から姿を現したトーマスたちに、長女は「あー」というリアクションを返した。あー。見覚えあるわ。
そんなもんだろうなとは予想していた。
7歳の長女にとってトーマスはもはや遠い記憶の中の、長期休暇のときだけ遊んでいた親戚の子のような存在である。
それでも長女は、手元に残す数点のおもちゃに、特にお気に入りだったトーマスたちを選んだ。それも予想通りだった。
友達は疎遠になっても思い出が薄れても他に近しい親友がたくさん増えても、それはそれとしてなんとなくずっと友達なのである。


趣味や環境が変わってもずっと付き合いが続いているのが本当に気の合う友達である、という意見をよく聞く。それもその通りだと思う。根本的な部分でウマが合う人とは何を話していてもなんとなく楽しい。そういう人は何人もいないから、確かに大切だなと思う。
それと同時に、たとえばクラス替えや進学先でたまたま一緒になった人間と楽しく過ごし、本当に楽しかったはずなのにクラスや進路が別れたらなんとなく連絡を取らなくなったり、いざ会っても話すことが特にない、というパターンも別に見下されるような関係性ではないなと思う。
高3のとき、英語の長文問題でそんなような内容の長文が出題された。
解答を書くよりその文章の「なるほど」に高3の私は集中してしまい、問題を最後まで解ききらなかったような気がする(こう書くとまるでいつもは最後まできちんと解けてましたと言わんばかりだが、まあそこは察してほしい)。
「その場限りの人間関係」だって決して薄っぺらいばかりではない、という結論でその長文は締められていた。そのときその環境でしか育めない関係性は確かにあり、その瞬間が充実していたことが大切なのだ。私たちは楽しかった。私たちにはいい思い出がお互いに存在している。それはそれでかけがえのない、価値のある関係ではないか。
そもそもこれまで環境が変わっても付き合い続けてきた友人だって、この先何があってどうなるかまでは分からない。突き詰めると死ぬ間際になってしか本当の友人判定はできないということになってしまう。
以前、高校時代の同級生に偶然再会したことがある。同じクラスでよく話していた子だが、進路が別れてからはお互い音沙汰なしだった。
彼女は息子を連れていたので、私は「お母さんの高校のときのお友達やよ」と自己紹介をしたのだが、そこに友達は間髪入れず「ちょお、今でも友達やん!」とツッコミを入れた。
そのカラッとしたツッコミと、そのカラッと感にそぐわないほどの熱い内容に私は嬉しくなってしまった。
連絡先は交換しなかったし、この先彼女とは偶然以外で再会することはなかなかないだろう。けれど私は充分だった。この先会わなさそうな友達、という気持ちはとても軽いが決して薄っぺらくはなかった。その軽さが本当に嬉しくて、私はスキップをしてしまったほどである。


長女は今、地上波で放送されているトーマスも観ていない。トーマスのキャラクターの名前もいくつかぼんやりしている。新作映画の情報も知らない。トーマスたちを手に取っても、どうやってあんなに熱中して遊んでいたのか、長女はきっともう思い出せないだろう。
それでもトーマスと長女は今も確かに友達なのである。
今こんなにも大好きな鬼滅の刃やすみっコぐらしのキャラクターたちも、いずれトーマス側に旅立つのだろう。それでもやはり、彼ら彼女らも長女の良き友達のままなのだ。
親として、娘たちにはそういう友達とたくさん出会ってほしいと思う。二次元でも現実でも脳内だけの存在でも構わない。
プラレールを譲る話をしたとき、楽しく遊んでくれる子になら譲るよ、と長女は言った。
かつて長女にたくさんのプラレールを譲ってくれた子たちも同じようなことを言っていた。プラレールは頑丈だ。きっと長女が譲った子も、その次の、またその次の子も同じようなことを言うのだろう。
大量のプラレールをなんとか整理し終わり、やれやれと一息つく。あと数日で受け渡されるそれらは、使い込まれた古い品なのに、どこかさっぱりとした真新しさが感じられた。