永遠の作りかた

今日から12月である。
12月になるたびに毎回「もう12月なの!?」とビックリしてしまう。歳をとるにつれて自分の中の時間の流れと実際の時間の流れの差は開く一方だが、12月がやってきたときの「もう」感は群を抜いている。
年末という「まとめられ」感、一ヶ月の間にやたら続く大きな行事、それに伴う出費、期待しては裏切られるボーナスの額、そして山村における冬との戦い、そして冬との戦い、そして冬との、そう冬との、何回も言うけど凍てつく山村における冬との長く厳しい戦いの幕開けとなる12月に、面構えが違ってきてしまうのは当然といえば当然ではなかろうか。
とにかく今日から12月である。いよいよ薪ストーブがフル稼働する季節に突入というわけだ。


我が家は薪ストーブで暖をとっている。
薪に使える木が手に入りやすいのが田舎のいいところだ。譲ってもらった大木をチェーンソーで適当にぶった切って、ストーブのサイズに合わせて斧で割る。薪小屋である程度乾燥させればよく燃える薪の出来上がりだ。
もらえる木は様々で、柿の木やら桜の木やら山のよう分からん木やら、大抵のものは薪にできる。小屋を解体したから持ってきた、とトラックでお勤め後の木々を運んできてくれた人もいる。ありがたい話である。
桜の木や林檎の木なんかは燃やすと独特のいい匂いがする、とよく聞くが、正直あまりよく分からない。そう思い込んだ方がオシャレな感じがするな、と思うので無理やりいい匂いだと念じてみたが、やはりよく分からなかった。
私にとって薪の燃える匂いは、猫のお腹のいい匂いに繋がっていく、思い出の誘発剤のようなものなのだ。
ストーブの熱で温まった猫のぬくもりといったら、ひと撫でするだけでいやぁ冬も悪くないねと思える幸福感でいっぱいになってしまう。
実際山村の冬なんか最悪に最悪な最悪だらけでしかないのだが、猫のお腹は一時的にでもそれを忘れさせてくれるパワーが詰まっている。
夜明け前、一人リビングに降りて、まだほんのりと温かい薪ストーブの扉を開ける。
灰を掻いていると、足音もなく猫がそっと私の隣にやってくる。これから何が起こるか猫は分かっているからだ。
焚きつけ用の小枝と古紙をいくつか放り込み、細めの薪を数本入れて扉を閉める。そうすると灰の中の小さな燃え残りたちがぼんやりと赤くゆらめき、小枝がじわじわと燃えていく。じわじわじわじわ赤さが増して、ある瞬間ボッとオレンジの炎が立つ。
その光景を猫と私は一緒にぼんやり眺めている。
猫の青緑色の瞳に炎が映り込み、それが体内に吸収されているかのように毛並みがふかふかと温まっていく。
再び安定して熱を帯びたストーブの前で、猫はやれやれと寝転がる。野生らしさのかけらもない仰向けスタイルだ。前足を胸の前にちょんと揃え、後ろ足は大股開きで真っ白なお腹がどーんと丸見えである。うちの猫は真っ白なお腹にちょこんと黒い毛が丸く生えていて、隠れチャームポイントとしてよくくすぐられていた。
そのあたりをもしゃもしゃと撫でると、猫はうっとりと目を細めてさらにダランと力を抜き、もはやカーペットと化してしまう。こんな温かくて柔らかくてかわいいカーペット、世界中どこを探しても見つからないだろうけれど。
ストーブの熱が篭もった猫のお腹からは、お日さまに似て異なるいい匂いがした。外に出さず育てたのもあって、猫はいつもいい匂いがした。人間の私よりよっぽどきれい好きだったと思う。家族で一番おしゃれだった。
猫は夜行性、夜の生き物なのに、どうして日光や薪ストーブのような熱によってこんなふかふかしたいい匂いになるのだろう。太陽にもストーブにも愛されているのかもしれない。何しろ猫はかわいいので。
薪ストーブを付けるたび、私はそんなことを思い出す。
猫は三年前に亡くなってしまって、今はもういない。
毎朝私は一人で灰を掻いている。これからもずっと、少なくとも夜明け前にストーブを再生させるときはずっと一人だ。
けれど毎朝、薪が爆ぜるたびに猫のお腹の匂いを思い出して嗅げている。ふかふかの触り心地も、干した毛布で代用しなくてもこの手のひらに再現できる。ゆらめく炎の向こうに、青緑色のくりっとした瞳を思い出せる。
私にとって、冬の朝のこの場所は、かつて猫がいたストーブ前ではなく、今も猫のいるストーブ前だ。猫は永遠にここにいる。


今年の冬も厳しい寒さになるだろう。なにしろ秋の終わりぐらいからカメムシが大量発生している。あいつらほんまええ加減にせえよ。
風邪をひかないよう、家の中を思いっきりあったかくしておこう、ストーブ早朝部隊頑張るぞ、エイエイオー、と心の中の猫と共に気合いを入れて、さて12月のスタートである。