あの頃セクシーコマンドーと

かれこれ30年くらい「やおい」が好きである。
30年といえば生まれたての赤子がツイッターで「最近の若い子文化にはついていけない〜」などと言い出すお年頃になるまでの年月だ。
それなりに長い年月の中で「やおい」を「BL」と呼び換えるのに違和感がなくなったりやっぱりやおいってしっくりくるわと思い直したり「腐女子」という呼び名に馴染んだりいやこの呼び名よく考えたらよくないよねと改めたりカプの左右にこだわったりこだわらなくなったりこだわりの原因について内省したり、好きでい続けつつ向き合い方は常に変化している。「萌え」を「尊い」とか「すこ」とか言う文化にはまだ全く馴染んでいない。ここはもう多分永遠に馴染まないと思う。特にすこ。今ここで具体例として打つのですら嫌。


私がやおいガールロードをよちよち歩き始めたのは、1990年代に入ってからだ。
キャラの背中にやたらと翼が生えたりやや無表情気味で片目から涙が一筋垂れていたりもしくは片目だけ手のひらで意味深に押さえていたり全体的に鎖に巻かれていたり鳥籠に閉じ込められていたり、そういう耽美さが混じった雰囲気が盛り上がっていたように思う。(「右目と左目のバランスがおかしくなるのをごまかすために手のひらで片方隠すんやけど、そうすると今度は手のひらと顔の大きさのバランスが難しくて困るんやて」という話を聞いたことがある)
世の中全体が恐怖の大王にマジで恐怖している(マジでというのはマジでマジという意味であり、いい大人たちがテレビで恐怖の大王について大真面目に話し合っていた)雰囲気がどんどん強まっていったせいか、いわゆる「バブルな攻め様」より「世界が軽めに滅びた後の世界で生きる二人」とか「滅びゆく世界に巻き込まれつつ愛を貫く二人」みたいなノリの話が記憶に強い。
このへんは最近のインターネットではもうネタにされ尽くされ過ぎて、一周どころか五億周は回った印象だ。かっこいいと思ってやってたんだからいいじゃないの。あの頃のやおいガールたちはなんだかんだあの頃をネタにしつつもそういうの好きな気持ち失っとらんと思うで。私も不破飛鳥とか好きやったし。天国へ行けない翼のオチが知りたいと20年以上思い続けている。


そんな破滅的世界観を二次創作パロの親として育った私だが、もうひとつ影響を受けたパロ概念がある。「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!マサルさん」である。
マサルさんは当時めちゃくちゃ流行っていた。
あの頃は今よりオタク文化に対する世間の視線が冷たく、同世代ですら「中高生になってもアニメ観てるやつ」ってさぁ……というところがややあったのだが、マサルさんは特別枠だった。クラスのノリのいい非オタク女子がメソかわいい〜などと言っても全然大丈夫だった。まだワンピースが大衆漫画になる前だった気がする。
もちろん私もゲラゲラ笑いながら読んでいた。非オタクのクラスメイトとも漫画ネタでおしゃべりできた、という数少ない楽しい青春の思い出である。
青春の思い出である、で片付けていたのだが、最近自分が思うよりずっと根深く影響を受けているなと気づいた。二次創作的な意味で好きになった作品の、特にカプ二人をすぐマサルさんのオープニングに登場させてしまうのだ。
当時の若者でペニシリンのロマンスを聴いたことがない、という人はかなりレアではないだろうか。夫などはいまだに娘たちの寝かしつけソングとしてよく弾き語っている。寝れるのかそれで。
あの曲とあのアニメーションの勢いの良さはちょっと忘れられない。もうオープニングだけで笑ってしまう。途中で突然MVが挟まれてるのも訳がわからない。とにかく勢いで乗り切っている。
私の好きになる二次創作カプは、大抵この勢いに混ざっても違和感がない。そのカプに対し繊細な解釈が村の主流だったとしてもうるせー知らねーである。基本的に図太い神経でゴーゴゴーな二人の解釈が好きなのだ。「あの人には俺なんかよりずっとふさわしい相手が……」より「でも俺って結構かわいいので」みたいなふてぶてしい物言いをごく自然にしてしまうタイプにぐっとくる。
破滅的世界観のやおいを親とする一方で二次創作パロになると爆発を背に全力で走り抜ける梟谷メンバーとかがすぐ浮かんでくる、若干矛盾したやおいガールとしてすくすく育ってしまった。赤葦くんは無表情なのにやたらと激しい指遣いでキーボードを叩いてくれると思う。
そんな感じでいまだに脳内でマサルさんのオープニングを一人パロってクスクス笑っている。私のやおいは90年代の亡霊だ。「オイイイイイイイッ」とは言わないが「ウォンチュッ」はよく出る。
そもそも思い返せば、小学校の国語の教科書に載っていた「おてがみ」がめちゃくちゃ好きな子どもだった。感情が湧いたら即全身でぶちまけてくるがまくんと、マイペースの極みなかえるくん。
一見優しいかえるくんががまくんに付き合ってあげてるように見えるが、かえるくんはかえるくんでやりたいようにやっており(別のエピソードなどを読むとマジのガチでのびのびとやりたいようにやっている)、ただ対等で適当な愛があるだけというのがいい。表現がズレていようがとんちんかんな結果になろうが、自分から相手への愛と相手から自分への愛に対し肯定感がゆるがないところが本当にいい。
破滅的世界観でもお互いさえいればとりあえずオッケーな感じで、爆発を背に走り抜け、周りが(何故そこで楽器を……?)となっても迂闊につっこめないくらい強固な自分たちだけの楽しさを見出している、そんなハチャメチャてんこもりなやつらを見つけては「くぅ〜ッ」と唸るのが好きだ。
私の場合はこんな感じである。
カプ観の好みは人それぞれなので、それぞれの「マイやおいトークを聞きたいとよく思う。オタクは自分語りが好きと言われるし実際そうなのだが、私は同じくらい他人の自分語りを聞くのも好きだ。みんなどんどんやおい人生を振り返ってほしいものである。